[review] Rhetorica Review

azumamiko|電脳的郊外の叙景──クレナイブックについて

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レビュー対象=秋全也「クレナイブック」azumamiko=IT系皿洗い。初出=Rhetorica #03(URLほかのレビューも読む(URL

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秋全也「クレナイブック」http://akimasanari.sakura.ne.jp/

 Twitter以前のインターネットにまつわる記憶をほとんど失っている。憶えているのは、ダイヤルアップのキチガイめいた通信音や、目的も手順も散漫としたなかで臨んだポート開放との苦闘など周辺的な事柄で、肝心の中身が欠落している。
 パソコン通信とテレホーダイの熱狂は知らず、テキストサイトの盛衰も横を通りすぎて、mixiは教室の空気より息苦しく、90年生まれのインターネット事情はなんとも中途半端だった。KAGAMIはTSUTAYAで知ったし、押井守はGEOが教えてくれた、という事実から遡行的に思い返すに、どうやらインターネットとはあまり縁がないらしい──数少ない例外が「クレナイブック」である。

 「クレナイブック*01」は2003年に開設された秋全也(あき・まさなり)による個人サイトである。また同サイトの中心コンテンツである、氏の作成した18禁を含む同人ノベルゲームのサークル名でもある。
 どういう経緯で辿り着いたかは憶えていない。しかも当時は前段にある通りのボンクラぶりからして、適切な検索ワードを持ちあわせていなかったように思う。が、故に「クレナイブック」との出会いは鮮烈であり、その後の多くを規定した。
 秋全也の作風を端的に示せば「破綻や終焉などとうの昔に過ぎ去った状況や場所のなかで、静かでスカスカした日常を、ときにかわいらしく、ときにグロテスクに描く」とでも言えばいいだろうか。
 初期作品『two』で描かれるほのぼのとした日常ラブコメの実態は、人形を彼女だと思いこんでいた主人公の空想であることが明かされる。恐らく最大の長編である(といってもそれほど長くない)『PULSE』での日常はプログラム上のシミュレーションに過ぎない。『collect』では人類消滅以降もなぜかゆるゆると運営される社会のなかで出会った生き残りの男女の日常が描かれる。
 終わりの予感を匂わせながら、限りなく人の気配が希薄な日常を引き伸ばしていくこと。今から思えば、彼に限らずこの手の90年代フォロワー的な作品は列挙しきれないだろう。ただ秋全也の描く日常の空気感はなお独特の強度を放っているように思える。

 90年代の空気はとうの昔に消尽した。驚くべきことに「クレナイブック」は今日も元気に運営中だ。アクセスカウンターは回り続け、相互リンクはいくつかリンク切れを起こし、過去作倉庫は残念ながら閉鎖中ながら、見た目としては当時とほぼ変わらない作りになっている。
 また秋全也本人は、氏いわく「広島県田舎」に住み続け、SNSにほぼ手を出さず(TINAMIが彼の生存を確認する最も手っ取り早い方法だ)更新頻度の減ったサイト内の日記で地方のアニメ放送事情をぼやく。そして氏は作品を作り続けている。最新作『Glare』シリーズでも相変わらず人間とアンドロイドとの恋という、すでに破綻した関係を静かに、そして古くて新しいゲームシステムで描いている。
 秋全也の作品世界は、「クレナイブック」というサイトの風景、また氏の最悪にして本質的な意味でのインディペンデント性と不可分である。私は、これら全体が漂わせる電脳的郊外性とでも呼べるなにがしかに、ただただ共鳴せずにはいれないのである。