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展示「彗星密室」に寄せて書かれた日記。執筆:松本友也初出:彗星密室
展示「彗星密室」に寄せて書かれた日記。執筆:松本友也初出:彗星密室
展示は無事に会期を迎えられたが、まだ自分の仕事は終わっていない。この「裏方日記」を、前半の会期中に書かなければならないことになっている。人があまりこないであろう平日に、受付業務をしながらこのテキストを書いている。
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今年の7月末ごろ、今回の会場になったギャラリー「WHYNOT」のオーナーであり、学生時代からの友人でもあるペインター・高屋永遠さんから、企画をやらないかという連絡があった。2年周期で出すはずなのにもう丸1年以上遅れてしまっているRhetoricaの新刊作業の弾みにもなるかもしれないということで、ぜひやらせてくださいとお返事をする。
よく聞かれることであり、また今回の会期中にも何度か聞かれていることだが、レトリカは組織としてのあり方がはっきりと固まっているわけではない。何か企画を始めるときは、そのときに手が空いているメンバーで必要な役割を都合しあう。手が足りなければ、ほかの人にお願いして手伝ってもらう。今回も寄稿者の方が設営に駆けつけてくれてとても助かった。。ありがとうございました。
役割分担は、雑誌や印刷物をつくる場合はそんなに難しくない。それなりに長く活動してきたこともあり、執筆から編集、撮影、誌面デザイン、DTPまで自分たちだけで一応完結するからだ。ちょっとしたトークイベントやワークショップなども、そんなに苦労せずに実施できる。しかし、展示は話が別だ。自分たちのなかで、いわゆる「作品」をつくり慣れている人はあまりいない。なので、何か展示的なことをやるときには、「自分たちが普段つくっているものを、いかに作品と言い張るか」という大喜利にこたえる形でそれをすることになる。
今回の「選書による展示」というコンセプトも、基本的にはそうした考えから生まれている。やり慣れている選書や書評というフォーマットを、「鑑賞」しうるような形に落とし込むこと。さらには、著作権などもろもろの制約に抵触しないようにそれをすること。いくつかの事情が重なって、書評を「栞」にするという展示の大枠が固まっていった。
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この展示のコンセプトや企画を具体的にどうやって考え、詰めていったのかを書いていきたいが、準備を終えたばかりの展示について振り返るのは難しい。まだ十分に距離がとれていないし、そのテーマについてしばらく考え続けたので正直飽きもある。
一応、「彗星密室」という展示のタイトルとコンセプトは自分が考えた(と言っていい、はず)。こういうアイデアっぽい部分は自分が担うことが多い。「選書による展示」という大枠が決まった段階で、「どんなコンセプトに基づいてそれをするのか」について、たしか一週間くらい時間を使って考えた。
なんとなく出発点にしたのは、「今・ここの現実から少し距離をとりたい」という気分だった。バカンス的といってもいいし、懐古的といってもいいが、なんかこう、ぱーっとした気分になりたいなあということを思っていた。ぱーっとした気分になりたいと言うことさえもはばかられる世だなあ、とも感じていた。こういうのは半分くらい思い込みだけど、とりあえずそこから出発する。
ただ、懐古や感傷は、現状追認的というか、そうした現状に対して一石投じる感じがしないので、わざわざ自分たちでやりたいことでもないな、とも思う。気分の塞ぎ込みに対して、その要因を掘り下げてみる。人に会ったり、話をしたりしたいのだろうか。いや、おそらくそうではない。イベントや展示に出かけたり、集まったりしたいということではない。なくなってしまったのは、むしろもっと個人的な、それぞれの公にできないような出来事や考えを共有する機会のほうだ。とりわけ、個人的な交友関係の外にいる人たちが、各々何を感じたり考えたりしているのか、については本当にわからなくなっているのではないか。少なくとも自分はそうだ。これも思い込みだけど、みんなもそう感じているに違いない。というわけでそれをコンセプトに落とし込むことに決める。
各々の「ひとり」を、それぞれに共有しあう機会。それなら書く方としても、読む方としても個人的にやってみたい感じがする。それを展示という「空間」のモチーフに絡めてみると、「部屋」、「ホテル」、「クローゼット」、「ビーチ」などの言葉が浮かんできた。さらにはそうした空間が、他人と共有されたり、現実から離れていったり、現実に衝突したり、「ぱーっとした感じ」を生み出したりする必要がある。これについては、わりと最初から「コメット/彗星」が浮かんでいた。最近ポケモンの対戦動画ばかり見ていてなんとなく「コメットパンチ」とか「りゅうせいぐん」みたいな技名が頭にあったのと(どちらも今やあまり使われなくなっているが……)、なんとなくコメットさんとかクリィミーマミとか名取さなみたいなキラキラの魔法少女?の感じが気分に近いなと思っていた。スケールの大きさ、脳天気であほっぽい感じ、話を聞かなさそうな感じ、ひとりで勝手にやってるけど、いろんなところに衝突したり輝きが目に入ってきたりする感じ。そのイメージを意識しつつ、空間と彗星を重ねた言葉を考えていった。結局、デザインとの兼ね合いもあるのでカタカナ、英字、漢字とでいくつかパターンを出して、みんなに選んでもらったのが彗星密室だった。まあどれだけあほなイメージで考えていても太田くんデザインならシュッとするので、今回もそういう感じになった。画数が多くなるようにワーディングを調整しておいて良かった。彗星も密室も余白のある言葉なので、見る人が勝手にニュアンスを補ってくれるだろうという期待もあった。
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9月ごろ、コンセプトを無事に考え終え、デザイン作業や企画詰めへの橋渡しをしたところで、勝手に仕事を終えた気になりあとはぼーっとしていた。展示の中身に関するドキュメントが勢いよく更新されていくのを眺めながら、概要文やプレスリリース部分などをぽつぽつ埋めていった。そして会期の3週間ほど前から、実際に展示物の制作に入っていく。選書と書評の依頼を投げたり、原稿を集めたり編集したり。ばたばたではあるが、直前の設営を除けば印刷物と変わらないので、全員が一応段取りをイメージして動ける。書評についてはワークショップなども行い、ふだんあまり文章を書かない人や学生でも、宿題として溜め込まずにアウトプットにこぎつけられるようにして進めた。このあたりの余計なロスや負荷を生まないための工夫は、だいぶ洗練されてきている気がする。
とはいえ、数ヶ月準備している企画ではあるし、在廊時間も会期も長い。ぎゅっと圧縮しても丸一週間以上はこの企画だけに費やしているはずだ。「工数あたりいくら」で請けている普段の制作仕事に比べても、だいぶ手間がかかっている。本来時間と体力を換金して生活しているはずのフリーランスにとっては、利益が単にゼロというだけでなく、その時間で稼げたはずのお金もロスしていることになる。つまり、完全に蕩尽である。今回のコアメンバーは全員がそんな調子であり、自分たちでもなぜそんなことをしているのかわからない。別に誰に強制されているわけでもないのに。
20代後半までは、蕩尽するがごとく制作することはスキルや機会に繋がっていた。その時々は大変でも、それが自分の生や生活を良くしているし、良くしていくと自然に思えた。しかし今や30歳が目前に迫り、むしろ生活と蕩尽はふつうに対立すると感じられるようになった。活動は、やればやるほど苦しくなる。でも、できないとそれはそれで息苦しいというか、身体が凝っていく。かつては生活を後押ししてくれた制作が、いまや生活を圧迫するということに、その位置づけの変化に、心身がまだついていっていない感じがする。
最近、みんなそれぞれゲーム(勝負事)にハマるようになった。太田くんは最近オンライン対戦もできるようになったカードゲームのMTGにハマっている。瀬下はスマブラ。僕はメギド72という、なかなか戦闘システムが面白いゲームにハマっていたが、最近はネットで麻雀ばかりしている。戦略性の高いゲームは、生活の中に小さな蕩尽を組み込ませてくれる。生の中に「張り」をもたらすもの。でもそれは、何かをつくることに倦んでしまっていることの裏返しでもある、ような気がする。どちらが良いということでもなく、むしろ制作はゲームのようにできなければ退屈なのだとも言えるけど、いずれにせよ確実に張りを与えてくれるものとしてのゲームにハマっているのは事実だ。
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そういえば、この展示を準備している最中に、太田くんに自分の名刺をつくってもらった。会社を辞めて独立してから数ヶ月経ったけど、人と会う機会もあまりないので新調していなかったのだ。名刺なんて機能的にはなんでもいいのだけど、学生のころに太田くんにつくってもらったレトリカ用の真っ赤な名刺が気に入っていて、またお願いした。
肩書きも情報もどうでもいいので極限までシンプルにしたい一方、いわば携帯する作品としての、自分で満足できるような主張が欲しいなと思っていた。カードゲームのカードのようなものだと思っているのかもしれない。それで、深海みたいな暗い青にしてほしい、というオーダーをした。展示準備の合間に瀬下の家でああでもないこうでもないと試行錯誤をして、最終的には心から満足できる名刺ができた。今もアルマジロのメモスタンドに挿して、デスクのいつでも見えるところに飾っている。
自分が表現したいと思うイメージと、それを阻む現実的な制約や困難。それをあれこれ試して、予期しない偶然なども混ざり込みながらそれらが止揚されていき、ひとつの固有性が生まれる。作品とは煎じ詰めれば全部だいたいそういうものだと思うが、そうした制作はやはり思った以上に深く生を癒やす。
今回「彗星」という言葉に込めたのも、たぶんこうした固有性、生の癒やし、摩擦によるきらめきのようなものだ。レトリカで何かをやるときには、少なくとも僕は、卓越性だけでなく再現性や普遍性にもこだわる。それは、制作を通じてほかの誰かが自分なりの生の癒やしに出会う、その瞬間が好きだからなんだろうと思う。卓越性は、そうした制作を刺激したり、支援したりするものとして不可欠ではあるが、自分にとっては目的そのものではない。
生活、制作、蕩尽。
Rhetoricaの次号をつくり切れていないのは、その折り合いを自分(たち)の中でうまくつくれていないからなんだろう。制作を支える情念、みたいなものに対する萎え。一方、生活と制作の両立といった題目への不信。この問い自体がすでにどうでもよく感じられていて、たいしてネガティブにもなっていないということ。とりあえず、今はゲームが面白い。心から面白いと思っていることに腰を据えて取り組むことでしか、たぶん張りは生まれない。これまでやってきたことに対しての名残惜しさも(幸い?)あまりないので、今はとにかく、今張れるものに張っていきたい。