[review] Rhetorica Review

cos.|ロンドンの墓地を散歩する

DESCRIPTION

レビュー対象=Abney Park Cemeterycos.=YA3iの一人。初出=Rhetorica #03(URLほかのレビューも読む(URL

Fig.01

photo: cos.

cos_1 墓地は常に哀しく厳かな場所でなくてはならないのだろうか。

 私がロンドンに住んでいたある日のこと、イギリス人の友人が唐突に「犬の散歩をしに墓地に行くから一緒に行かない?」と私を誘った。もともと著名人の墓参りを旅の楽しみとしていた私にとって、墓地への散歩に誘ってくれる友人が身近にいたことは嬉しい驚きだった。
 友人が連れて行ってくれた「Abney Park Cemetary」(以下アブニー・パーク)という庭園墓地は、ロンドン北東部のStoke Newingtonという、ヒップだけども高級感あるエリアに位置していた。アブニー・パークは車や人通りが多く騒々しい駅のすぐ目の前にあり、正面の門は森の入り口のようだった。その敷地に一歩足を踏み入れた途端、それまでの喧騒から遠く離れて、『ナルニア帝国物語』のクローゼットの向こう側か、あるいは『Dr.パルナサスの鏡』の鏡の中に広がっている別世界のような場所に突然迷い込んでしまった感覚に陥った。いたるところに木々が生い茂り、パーク内は真っ昼間でも少し薄暗い。門から迷い込んだ来客を迎えるように点在している墓石を一つ一つ眺めながら、私たちは墓地の奥へと進んでいった。
 幼くして亡くなったであろう子供の姿が収まっている写真立て、“Mom”や“Dad”と書かれた水瓶、恋人や戦士へのメッセージが刻まれた石像──ゴシック建築のチャペルが廃墟として佇んでいるアブニー・パークの中心部には、名も無い人々の何世紀にもわたる歴史がいたるところに刻み込まれている。アブニー・パークの魅力は、こうした無秩序さの中に垣間見える時間の痕跡にある。この墓地は、私が今まで訪れてきた欧米や日本の墓地のように、きっちりと手入れされてはいない。ここには、メンテナンスが施されることなく長い年月放置されている墓石や、スプレーで落書きされて無残な姿になったモニュメントがたくさんある。頭のない銅像もちらほら見つかった。縁起が悪いかもしれないし、不気味かもしれない。でも、私にとってはそれが心地よかった。捨て置かれた石像や廃墟は人の生きた痕跡を感じさせ、朽ちた墓石や木々は過ぎ去っていく時の儚さを美しく表現していた。
 私が著名人の墓地巡りを旅の目的の一つにするようになった直接のきっかけは、フランスはパリに訪れた際にジム・モリソンの墓へとなんとなく足を運び、墓地という場所の魅力にとりつかれたことにある。だけれど、私はそれよりも前から自分の、あるいは他人の死後の処遇についてよく想いを巡らせていた。たとえば親族や友人を亡くし、想像もできないほどのつらさを経験している人々に対し、何と声をかけたらよいのだろう。彼らの気持ちになってみようとしても、辛くて途方も無い気持ちになるばかりで、その想いに寄り添うことなどできそうにない。
 ただ、自分がもし亡くなった当人だったら何を思うだろうかと考えると、自分が死んでしまったことの悲しみよりも、自分の大切な人たちがみなどん底の気持ちになっている姿を見る方が辛いのではないか、と気づいた。
 私にとって墓地が大切なのは、そこが死の悲しみを受け入れた上で、その人を前向きに思い出せる場所だからだ。死んでしまったら、自分の死を悲しむ大切な人たちに声をかけてあげることもできない。人々の記憶から自分の存在が薄れるのも止められないだろう。だからせめて墓は大切な人たちが死に向き合える場所であって欲しい。そしてできれば、私の大切な人たちのこともそのようにして送り出したい。

 私がヨーロッパ圏の墓地に安らぎを覚えるのは、火葬式の日本と違って、墓の下にその人がいるという感覚があるからかもしれない。だからこそ、誰かの生の名残りを感じながら思うままに散歩ができる。日本の墓地は、墓参りなどの目的があるときにしか訪れない場所であり、しっかり管理もされていて、なんとなく他人の敷地のようなよそよそしさがある。私にとっては、あれこれ想いを巡らせながら散歩できるくらいに雑然とした、アブニー・パークのような庭園墓地がちょうどいいのだ。

 墓地を散歩するのは、そこで眠る魂にとって失礼なことなのだろうか。