[review] Rhetorica Review

柳原一徳|神国日本の地下水脈

DESCRIPTION

レビュー対象=大本神諭
柳原一徳=I think everyone believes in God in their own ways.

Fig.01

弾圧の凄まじさを伝える、首が落とされた大本の地蔵。photo: Ittoku Yanagihara

ittoku01「三ぜん世界一同に開く梅の花、艮[うしとら]の金神の世になりたぞよ。梅で開いて松で治める、神国の世になりたぞよ。日本は神道、神が構はな行けぬ国であるぞよ。外国は獣類の世、強いもの勝ちの、悪魔ばかりの国であるぞよ。日本も獣の世になりて居るぞよ。外国人にばかされて、尻の毛まで抜かれて居りても、未だ眼が覚めん暗がりの世になりて居るぞよ。是では、国は立ちては行かんから、神が表に現はれて、三千世界の立替へ立直しを致すぞよ」

 印象的なイメージで始まるこの文章は、現在も京都府北部を拠点に公称10万人の信徒を抱える宗教法人・大本の聖典『大本神諭[しんゆ]』の中の一節だ。著者である開祖・出口なお(1837-1918)は、明治25年(1892)旧正月に突如神がかり状態に陥り、以降「お筆先」と呼ばれる警告と終末論的ヴィジョンに満ちた自動書記を次々と発表し、徐々に彼女の周囲に信仰共同体を形成していく。こうしたシャーマン的な女性教祖の宣託を聖典とする宗教団体は、中山みき(1798-1887)の天理教や一尊如来きの(1756-1826)の如来教・一尊教団など数多く存在するが、そうした中でもこの『大本神諭』は、文体の持つ切迫した緊張感と独特な言葉使いによって、単なる宗教的文書にとどまらない強度と魅力を獲得している。
 だが、今日われわれが目にすることができる『神愉』は原典と大きく異なっている。というのも、なおは読み書きの教育を受けておらず、彼女の文章の大部分は解読困難なひらがなと漢数字の当て字で構成されており、多義的な解釈を許すものだったからだ。そうした膨大な数の半紙に書かれたお筆先を選別し、適切な編集を施して解釈を示すことで教団の拡大・組織化に大きな役割を果たしたのが、もうひとりの教祖である聖師・出口王仁三郎である。王仁三郎はそのカリスマ性と、新聞を買収するなどの優れた市場感覚によって宗教的起業家として語られることも多く、また芸術的才能にも恵まれていた。彼による第二の聖典『霊界物語』は、超越的な否定の神、艮の金神による終末論的ヴィジョンを反復する『神愉』に対して、終末論に伴う緊張感を和らげ、民衆と死後の世界を繋ぐような人間味溢れる霊界の神々を描き、ポップな多神教的世界観をつくりだすことに成功している。
 なおと王仁三郎のカップルによる教団運営──天照大神とスサノオにもなぞらえられる──や、北大路魯山人や谷川徹三などの知識人シンパたちも注目した芸術的実践(ここでも、非識字者である二代目教主・出口すみこや、精神的に不安定だった三代教主補・出口日出麿のような周縁性を帯びた人物が優れた作品を残している)。そして、国家によって二度にわたって行われた徹底的な弾圧(のちに高橋和巳『邪宗門』のモデルとなった)は、大本を語る上で外すことはできない要素である。また、今日的な文脈においては、世界救世教の岡田茂吉や、現首相・安倍晋三も参加する「日本会議」への影響力の強さから話題となった生長の家の谷口雅春をはじめ、多くの新興宗教の指導者を輩出した生成力の高さも見逃すことはできないだろう。
 日本では、オウム真理教事件以降、宗教的なものはおおむね忌避の対象となってきたが、それは宗教との決別というよりも、むしろ宗教への盲目を意味していた。王仁三郎は、政治(=まつりごと)と宗教との関係について、政治と宗教が真に釣り合う「真釣りごと」にその本質があるという言葉遊びのような語源学を展開しているが、例えば二〇一五年最大の政治的イベントであった安保法制を巡る官邸前デモは、宗教的にはキリスト教無教会主義と生長の家の対決であったともいえるのだ。

「真釣りとは、度量の両端に重量をかけて、平衡させる意義である。天上の儀と地上の儀とを、相一致せしむる作法が、まつり[祭祀]である、まつりごと[政道]である。祭祀、政道の大義はこれ以外に決してあるべきではない」

 王仁三郎が撒いた種が日本各地で育ち、いっけんデタラメな言葉遊びが予言の自己成就をみせる状況が存在するのだとしたら、その原点である大本に立ち返ってみることは、今日もなおわれわれに多くのヒントを与えるだろう。