[review] Rhetorica Review

小澤みゆき|とんでイスタンブール

DESCRIPTION

レビュー対象=小島剛一『トルコのもう一つの顔』
小澤みゆき=27歳・無職ときどき主婦。学生の時は藤沢で計算機科学を勉強しながら、下北沢のジャズ喫茶でアルバイトやZINE制作をしていました。

Fig.01

アスペンドス遺跡、トルコ共和国 photo: Miyuki Ozawa

mitsuba_1 2015年9月、夫となる人とトルコ旅行に出かけた。深い意味はなく、ただおいしいものを食べて、きれいな景色を見てのんびりしたいという──つまり思想がなく実に散漫な──バカンスだったのだけど。アンカラの遺跡やカッパドキアの絶景には一瞥もせず海を求めた。ただ仮にも情報技術を生業とする者として、トロイの木馬は見ておくべきではないかという議論がなされたけれど、ぴかぴかの木馬を見たところで1bitも得るもの無し、という合意に至った。
 前半は、地中海沿いの南部の街・アンタルヤを訪ねた。昨年11月にはG20も開かれたトルコ屈指の観光地。でも雰囲気たっぷりの旧市街以外は田舎っぽく、誤解を恐れずに言えば小綺麗な熱海といった感じ。日本人はまずいない。レストランのメニューにトルコ語とともに記されたドイツ語や、小さな子どもを連れた白人家族を見て、ここがヨーロッパ人にとっての「お手軽なリゾート」であることに気づきはじめる。
 自分が見ているトルコは、地中海から吹く西欧の風をまとった姿なのかも──アンタルヤからバスとタクシーで2時間かけてアスペンドス遺跡[Fig.1]を訪ねたとき、そんなことを考えた。賢帝で知られるマルクス・アウレリウス帝の時代、紀元2世紀に造られたという立派な石造りの円形劇場。保存状態はとても良く、拍子抜けするほどそのままの姿で残されている。今でも夏にはオペラやバレエが上演されるらしく、舞台上には簡素な照明装置も置かれていた。トルコの、こんな田舎の地で、太陽に照らされたアポロン像の大劇場[アンフィテアトロ]を拝むことができるなんて。感動とおどろきで胸がいっぱいになった。
 かなり急な階段を上まで登り、舞台を見下ろし、想像をしてみる。夜、薄暗い炎の中からあらわれる、機械仕掛けの神。観客たちの肌に触れる、山から吹くすずしい夜風。開けた天にはコロスたちの声が抜けてゆく。劇場全体が発する二千年の記憶の鮮烈さに、わたしはひどくおどろき、うろたえる。そこから導き出される答え──ここは、確かにローマ帝国だったということ。まるでおばあさんの手に刻まれた深い皺のように、景色はリアリティのある表情をしていた。
 遺跡からの帰り、バスのなかで本を開く。小島剛一『トルコのもう一つの顔』(中公新書、1991年)は、トルコに魅せられた言語学者による、渾身の旅の記録だ。トルコには、トルコ語を母語とするトルコ民族のほかに70以上の少数民族とことばがあるが、強制的な民族同化政策によってそれらは存在しないことになっていったという。著者の小島は少数民族が暮らす地域に滞在し、文字通り身体を張って実地調査を続けてゆく。ときに人に裏切られたり、不当な暴力を受けたり、さらには国外追放(!)になりながらも、危険を冒して旅を続ける。“統一”よりもはるか昔からこの地で暮らしを営んできた人々への深い共感と憐情が、小島を突き動かす。スリル満点のルポに並みのサスペンス以上のおもしろさを感じ、道中読み耽っていた。
 その後イスタンブールへ渡り、世界遺産のモスクや海峡のクルーズを愉しんだが、頭の裏側には、つねに誰かの鈍い視線がこびりついていた。「エキゾチックで、食べ物がおいしい親日国」──こんな漠としたイメージに、小島は後ろから光をあて、その横顔を暴き出す(食事は本当においしかったが)。しかし現実のなかで、わたしはその面影を感知することすらできない。
 息絶える直前に血を吹き出したかのような残暑の中、ふたつの大陸に挟まれて海は悠々と青くひろがっている。陸には赤い屋根が低く連なり、頭上のかもめは船とともに進む。目に映るこの国のそんな横顔は、翳りがありながらもすがすがしい。正面から見ることはかなわなくても、それは確かな記憶として錨を降ろし、今もわたしの中に沈殿している。