[review] Rhetorica Review

太田知也|「間口」と「切り口」──レビュー企画へのイントロダクション

CONTENTS

太田知也|「間口」と「切り口」 tofubeats|信じる者は、 キンコマンズ|ゆりちゃん tomad|POP IS OVER デス・デジタル|デイ・ドリームだがストリーミング 448|うどんとラーメン 田村俊明|クエスト : 狂乱の呼び声 towatakaya|駆け出すのではなく azumamiko|電脳的郊外の叙景 石井雅巳|ユダヤ的なものをめぐって 中村健太郎|「良いチーム」についての試論 レロ|異国のミニチュアとしての東京ディズニーシー texiyama|大都会と砂丘 Hiden|「生活」から「休憩」へ

 レビューはなんのためにあるか。少なくとも僕は、次の言葉にしたがって、間口をつくるためであってほしいと思っている。

「ぼくが好きな映画の感動を、あなたにも分かってほしい。そして、これはあくまでおまけだけれど、物語とか役者とかそういう感動のほかに『長い移動撮影にぞくぞくする』とか『この光の具合ってとってもきれい』とか『この編集って経済的でかっこいい』とか、まあ、そういったいろいろな種類の感動の『間口』をあなたの中につくることができたなら、ぼくはとても得した気分になれるんだ。」
(伊藤計劃「About the contents ‑ Running Pictures / Cinematrix」『伊藤計劃記録』早川書房、二〇一〇年、198頁)

 次ページから始まる今号のレビュー企画ではジャンルもテーマも指定せず、ただ友人に紹介したいコンテンツ、というメタなお題で書いてもらった。依頼文は次の通り。

「いま、あなたが友人にすすめたいと思うコンテンツを紹介してください。社会的なニーズやインパクトに囚われず、自分(たち)にとって重要と感じるコンテンツについて書いてください。」

 だからここには雑多なテキストが並び、対象へのアプローチもさまざまだ(レビュー対象が「コンテンツ」ですらなく、日常の断片や特定の情感に思いの丈をぶつけてくれた向きも多い──というかそれが大半を占めるのではないか?)
 ところで、「間口」と「切り口」は違う。切ってみせることは、そこから「窺う」ことを可能にする。他方で間口とは──連れて行き、そして帰ってこさせるような──そこを通り抜けるためのものだ。連れて帰ってくること。その運動体を担うのは文体であることだろう。文体が書き手/読み手を運動させる限り、どんなところにでも間口を設えうる。

 読者が文体にの(め)り込み、そこを通り抜け──そしてできることなら──、別の間口を辿って帰ってこられんことを願う。