レビューはなんのためにあるか。少なくとも僕は、次の言葉にしたがって、間口をつくるためであってほしいと思っている。
「ぼくが好きな映画の感動を、あなたにも分かってほしい。そして、これはあくまでおまけだけれど、物語とか役者とかそういう感動のほかに『長い移動撮影にぞくぞくする』とか『この光の具合ってとってもきれい』とか『この編集って経済的でかっこいい』とか、まあ、そういったいろいろな種類の感動の『間口』をあなたの中につくることができたなら、ぼくはとても得した気分になれるんだ。」
(伊藤計劃「About the contents ‑ Running Pictures / Cinematrix」『伊藤計劃記録』早川書房、二〇一〇年、198頁)
次ページから始まる今号のレビュー企画ではジャンルもテーマも指定せず、ただ友人に紹介したいコンテンツ、というメタなお題で書いてもらった。依頼文は次の通り。
「いま、あなたが友人にすすめたいと思うコンテンツを紹介してください。社会的なニーズやインパクトに囚われず、自分(たち)にとって重要と感じるコンテンツについて書いてください。」
だからここには雑多なテキストが並び、対象へのアプローチもさまざまだ(レビュー対象が「コンテンツ」ですらなく、日常の断片や特定の情感に思いの丈をぶつけてくれた向きも多い──というかそれが大半を占めるのではないか?)。
ところで、「間口」と「切り口」は違う。切ってみせることは、そこから「窺う」ことを可能にする。他方で間口とは──連れて行き、そして帰ってこさせるような──そこを通り抜けるためのものだ。連れて帰ってくること。その運動体を担うのは文体であることだろう。文体が書き手/読み手を運動させる限り、どんなところにでも間口を設えうる。
読者が文体にの(め)り込み、そこを通り抜け──そしてできることなら──、別の間口を辿って帰ってこられんことを願う。