[interview] Takashi SHIMIZU

文明の第三世代へ──『ポストメディア人類学に向けて』

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このインタビューは、ピエール・レヴィ『ポストメディア人類学に向けて──集合的知性』(水声社、2015)に付されたものである。レヴィが(「集合」に限らず)「個」を扱う方法として情報技術を捉えようとしていることや、そうした思想の背景にあるセールやドゥルーズ=ガタリとの影響関係などが掘り下げられ、同書を読み解くうえで有益な補助線となっている。インタビュー:清水高志
聞き手:松本友也

個とアイデンティティ松本──今回のインタヴューでは、この『ポストメディア人類学に向けて──集合的知性』(以下、『ポストメディア』)を読み解く上で重要なポイントを、訳者の一人である清水高志さんにお伺いしたいと思います。まず、ピエール・レヴィのこの著作の主題や背景にあたる部分に関してお聞きしたいのですが、いかがでしょうか?

清水──まず《ポストメディア》というのはフェリックス・ガタリが提示した概念で、彼のいう「モル的」なマスメディアの後に来る情報の環境をどう考えるかということです。原題の直訳は『集合的知性』ですが、これは一見、いわゆる集合知について語るもののようです。しかし実際には、そこで語られているのは異質さ、特異さをもった《個人》という主題なのです。統計的な規模での大きな集団や、マルチチュードとしての大衆をあつかった議論は、消費社会論やそこで彼らが埋没してしまうという議論も絡めて、二十世紀後半に多くみられました。高度消費社会では巨大な数の大衆が、お互いの欲望を模倣しあい、競い合って消費するなかで、なんとかみずからの主体性を確立しようとするのですが、それは実際には果たされません。そこで欲望されているモノ、商品も、競い合っている者たちも《誰でもいい》《何でもいい》ものになっている。
 レヴィの師であるミシェル・セールが、九十年代に提示した印象的な主題があります。それは《この特異なもの》としての自然(あるいはモノ)、個人が見えなくなっている。自然や個人は、《見えざるもの》なのだというものです。セールは特に『アトラス』という著書で、この見えなくなってしまった個人たちを、《ミゼラブル(misérable、哀れな者たち)》という風に呼んでいます。有名な『レ・ミゼラブル』という作品の表題にもなった、価値付与されない個人たちのことですね(笑)。レヴィがこの近未来的な情報論のなかで扱いたいのも、まさにこの《ミゼラブル》たちなのです。ここでまず重要なのは、個人のアイデンティティが、なんらかの決まった集団への帰属によって決定されてしまう現代社会のあり方をどうするか、という問題意識です。ここでは、二つの議論が絡みあって出されています。一つは、商品経済そのものが、土地(領土)や階層に位置づけられて機能してきた社会を解体し、より大きな循環のなかで人々を《脱領土化》していくという議論。ここにもまず、レヴィはある程度の価値は認めているように思われます。複数の個人たちを結びつけ、帰属させていたのは、かつては社会階層や地域性、ジェンダーといったより普遍的な集団性でした。しかし、高度な経済社会のなかではこれは、消費の大きな循環に姿を変えてしまう。またもや大きなもの、集団的なものなのです。
 いっぽうで、もう一つの議論は複数のものを結びつける媒体を変えてしまおうとするものです。これはセールからも来ているもので、個を複数の普遍的なグルーピングやスペックを結びつける結節点的な媒体として捉えようとするものです。この結節関係を、固定的なものとしてではなく、また可変的で発展的なものとして評価するところに、個人の発見がある。そうした可能性を、情報技術とそれにまつわる制度設計のなかで模索しようというのが、このレヴィの『ポストメディア』なのです。

松本──確かに、レヴィが集合的知性を語るとき、重心はつねに個の側にありますよね。集合的知性という道具は、あくまでも個人の変化や自己形成をエンパワーメントするものとして存在しています。レヴィはこの個人の変容のプロセスを《修習》という独特なタームで表現していますが……。

清水──彼が強調するのは、個としての他者を傾聴(l’écoute)し、価値付与していこう、ということですね。情報技術にそのための可能性を見る。一般的に情報論では、発信や相互のコミュニケーションの側面が強調されるけれど、レヴィが強調するのはまず《聴く》ということ。ここは少し変わっている点ですね。モル的(マス的)に捉えられない個人は、まず《聴かれる》のです。これは彼にとって倫理の第一歩ですが、それを実現するための技術的な基盤を、現代の情報技術に見出そうとしています。ただし、たとえば選挙権を国民全体に与えたからといってかならずしも民主主義が実現するわけではないように、インターネットなどの技術が普及するだけではそれが個人を生成したり、可視化することには単純には結びつかない。そのために、様々な倫理的、制度的な提言をしているのがこの本の特徴であり、またそれは今日、なお大きな問題提起だともいえますね。
素材という主題清水──本書では、情報技術だけではなく、もう少し広い意味での科学論も扱われています。私の印象だと、レヴィはセールの技術論に大きな影響を受けていますね。『分布』という著作でセールが展開した、原動機(moteur)論という議論があります。人間が自然からどうやって力やエネルギーを引き出してきたか、という観点から、人類の文明全体を考えるのです。彼はそれを三段階に分類して考察する。こうした力についての考察が原動機(moteur)論と呼ばれています。さまざまな時代の人類にとっての、駆動力(モーター)にあたるものを考えるわけです。
 複雑な議論なのですが、まず、風車や水車のように、すでにある自然エネルギーを力学的に「移動させる」(第一世代:力学的原動機)というものをセールは挙げています。次に二種類の熱源の差異をもった一まとまりのマスを扱い、「循環や均衡の過程とともにエネルギーを導く」(第二世代:熱力学的原動機)というものが重要になってくる。差異を均衡に回収する中で循環がうまれ、それが全体のシステムを駆動するというモデルです。これは、産業革命以後の人類文明を特徴づけるものと捉えられています。先に述べた高度資本主義の経済にいたるまで、模倣と同化の圧力のもとで差異を均衡しつつ駆動していく、マス的なモーターだというわけです。メディア論的にいうと、従来のマスメディアというものが、まさにこのような同化の圧力を主導するものとして機能していたわけです。
 ところで、この後に来るものとして、実はセールは第三世代の情報的原動機なるものを想定しているんですね。この第三世代は、第二世代がエントロピー的なマスを、不可逆的な過程のなかで扱ったのに対し、むしろ個と差異に向かっているとされます。これは、情報理論の偉大な開拓者たちであったシャノンとブリルアンが、情報をネゲントロピーによって定義したこととも結びついています。エントロピーが多くないほど、情報量は多いとされたのです。ですが八十年代のセールにおいては、いまだ予見的で文化論として十分に展開されたとはいい難いところもあります。
 ところがレヴィは、こうした議論をさらに技術と結びつけて、微妙に軌道修正しつつ、この本できわめて説得的に展開して見せたんですね。第二世代は、セールにおいても経済や文化、思想までを含めた近代というものを駆動するものとされていました。十九世紀の思想、科学、ロマン主義的な芸術までがそれによって分析されたのですが、これに変化をもたらすものとして、《情報の世代》というものがレヴィによってより具体的に論じられたのです。それは、空間と空間の近接性を自在に変えてしまうばかりか、不可逆であったはずの時間すら可逆的に編集してしまう《個人》が、情報技術の高度化によって可能になるのではないか、それこそが経済も、文化も、政治も駆動するようになるべきではないか、というものです。これは第二世代からすると二重の転換です。不可逆性から可逆性へ、マスから個へ、という……。

松本──セールの技術論・文明論に大きく影響を受けつつも、セールが展開し切ってはいなかった近未来の文明についての大きな見取り図を、現代にすでに見られる萌芽的な技術の変化から展望しようとしていると。現代ですらまだ、ここで述べられているようなマス的なものを扱う第二世代の枠組みからそれほど抜け出ていないのではないかというレヴィの認識と併せて、興味深い論点だと思います。

清水──そう、まさにそこなんですよ。レヴィはまた、ドゥルーズ=ガタリ的な語彙を用いて、こうした第三世代への移行を、「モル的から分子的へ」という風にも表現しています。《個》に向かっていくことを「分子的」と形容するのはガタリなどもそうですが、この主題もレヴィにおいて、いっそう具体的になったように思います。
 彼はさらに面白いことに、現代のテクノロジーそのものが、素材を「分子的」に扱うものに変化してきている、ということも述べています。《個》としてのモノや素材の発見、少なくとも方向としては、技術もそれを目指しているというのです。ナノテクノロジーや遺伝子工学のような、《個》を媒体としつつそこで複雑な組み換えを行う技術を、彼は《分子的テクノロジー》と呼んでいる。情報技術が《個》としての人間を「聴き取る」ことを可能にしようとしているとき、《個》としてのモノも発見されようとしており、文明を駆動するあらたな力になっている。これらの動向はパラレルだというのです。
 レヴィは、情報とモノが同等に扱われる状況を語っている。それを可能にするのは、《個》への視点の転換と、可逆性や組み合わせの変化がもたらされる媒体としてそれをとらえるという方法論の変化です。第二世代の技術が二十世紀まで、ポストモダンまでの文化状況をうまく描き出しているのだとすると、レヴィが分析しているこうした状況は、実に二十一世紀的です。哲学や芸術論でも、今日では《個》やモノへの着目を打ち出したニューマテリアリズムや、思弁的実在論が台頭してきていますよね。レヴィは情報論を扱いつつも、モノが《何でもいい》ものになり、記号の循環ばかりが語られていた思想の状況とは対照的な視点を打ち出し、「記号の時代」の終焉を予見した。また原題の直訳は『集合的知性』ですが、特異な《個人》というものにいかに耳を傾けるかを最大の課題とする思想を打ち出した。そこに、この『ポストメディア』の二重の逆説があると思います。
「異なる時間が並び立つ」──リアルタイムについて清水──分子的なテクノロジーには、個に向かうだけでなく、方向が無いというもう一つの特徴もあります。モル的なものには、大きなものに向かってすべてが回収されていくような側面があるが、分子的なものには、こちらからあちらへ、という方向がない。情報というのは、個が空間の近接性を組み替える主体になっていくということでもあるし、時間的なものも色んなタイムラグがあるままで同一平面に並べられるということでもある。これが、大きなものへの回収から逃れる糸口となっているわけですね。
 ここでさらにキーワードになってくるのが、《リアルタイム》という概念なのです。一般的にこの語は「即時性」みたいにすごく急いでいるようなイメージがあるかもしれないけれど、レヴィが述べているリアルタイムというのは、時間と別の時間が共存するというあり方であり、それを技術的に可能にするのがサイバースペースだという話になっている。ちなみに、本書ではリアルタイムの議論は、「異なる時間が並び立つ」というテーマとして論じられているんだけれども、翌年レヴィが発表した『ヴァーチャルとは何か?』においては、むしろ遡及的というか、出来上がったものを未完成な生成のプロセスに分解して、別の形に組み上げる事態を語る際に必要になるものとして発展させられている。こんな風に、遡及的な運動を考えていくというトピックは、今日美学でエリー・デューリングが展開しているプロトタイプ論や、技術論だとドゥルーズのシモンドン解釈にもつながるもので、まさに現代的な論点だと思います。
 こうした論点は、モノやマテリアルについての捉え方にも関係していて、レヴィは個人も情報もひとつのモノとして、組み合わさったり別の仕方でつくられたりする、相互規定しあうものとして捉えている。モノにもプロセスの循環があるわけです。レヴィはそこでオートポイエーシス的と言ったりしていますが、セールの学問的な系譜でいうと、ラトゥールのようなアクター・ネットワーク論に近い印象を受けます。ループしながら対象を別の対象に関与させて、複数の知性体をつくって、それらがまたお互いを変えていく、一と多の相互作用を考慮して、情報・空間論を考えているわけですね。

松本──そのリアルタイム性というか、時間の並存性というのは、具体的な現象としてはどういったものになるのでしょうか?

清水──たとえば、電話だったら発信された情報はほぼ同時に受信されるわけですよね。それが普通の意味でのリアルタイムだと思うのだけど、レヴィが言っているのはむしろ今で言うSNSみたいなイメージで、発信した情報が他の誰かに別の時間に受け取られたり、あるいはそもそも受け取られなかったりといったラグのあるコミュニケーションの方をリアルタイムだと述べている。発信されたものがいつ・どこで生きたコミュニケーションになるかがわからず、時間的にも空間的にも並存しているわけですよね。《智慧の空間》自体もあらゆるところで動いていて、時系列も組み変わっているわけです。

松本──そこでの「リアル」というのは、メッセージが実際に「生きた」ものになるという意味でのリアルなわけですね。主観的な時間=アクチュアルな時間の方を、リアルタイムと呼んでいると。『ヴァーチャルとは何か?』のなかでも、一度完成し現実化したものが再度ヴァーチャルで未決定なプロセスに戻り、そしてまた現実化・アクチュアル化する、という事態について言及がありました。その問題が、『ポストメディア人類学に向けて』では情報空間の話になっているけれど、『ヴァーチャルとは何か?』では、個々人の実践のレベルや作品制作の話に関係しているというのが面白いのかなと……。

清水──そうですね。そういう意味でも、実際の制作の現場にいる人たちが、本書をどう読んで下さるのかにとても興味がありますね。

[2015年2月9日──於新宿]