[review] Rhetorica Review

中村健太郎|「良いチーム」についての試論──RIAの設計プロセスから考える

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レビュー対象=RIA中村健太郎=レトリカ界隈ではジョンと呼ばれたり。本業は建築家でプログラマ。初出=Rhetorica #03(URLほかのレビューも読む(URL

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『疾風のごとく駆け抜けたRIAの住宅づくり[1953-69]』RIA住宅の会=編、彰国社、二〇一三年

 僕には「良いチーム」に対する強い憧れがある。個々人の高い能力がチームの中で絶妙に噛み合うことで、一人では到達しえない強度の作品を生み出すという制作プロセス。ものづくりに携わる人間がもつフェティシズムの一種として、こういった類のものがあるのは間違いない。
 RIA(Research Institute of Architecture)はそうしたチームによるクリエイションを、建築の領域で実現した稀有な集団の一つである。山口文象という建築家が戦後に作ったこの建築事務所は、戦後復興期の15年間に、四五〇軒を超える驚異的な数の住宅を世に送り出したという。『疾風のごとく駆け抜けたRIAの住宅づくり[1953-69]*01を手に取ったのは、レジェンドとしてのRIAに興味を惹かれたからだった。しかしそこで僕は、予想を超える深い洞察を得ることになる。
 RIAの活躍の背景には、戦後復興期の住宅問題があった。戦禍で焼け野原になった都市への大量の兵の帰還が生んだ住宅不足。そして単に量を供給するだけでなく、西欧化する日常生活に合わせていかに伝統的な居住形式を刷新するのかという課題も浮上した。そうした状況下で建築家は、住空間の改革という使命を唯一果たしうる存在であった。しかし彼らの大部分は、同時期に勃興した建築メディア──主には雑誌──上での評価ゲームに拘泥してしまう。そこではいかに目新しい建物を作り出し、誌面映えのする建築写真を撮るかが至上命題であった。結果として誌面を飾ったのは、採算度外視のスタンドプレーばかり。こうして建築家のエコシステムと社会のニーズは、時を追うごとに乖離していったのである。
 そうしたなかで、RIAは初めてチームによる設計を打ち出し、質と量の両立を図った。それを支えたのが「プランニング・コンペ」と呼ばれる彼ら独自の方法である。
 大量の建物を設計するためには、設計プロセスをいかにして効率化するかが重要だと普通は考える。しかし彼らはあえて案件ごとに社内コンペを実施するという冗長な方法を取った。若手からベテランまでフラットな立場で提案を作成したうえで、対話を通してもっとも優れた提案を選び出し、提案者を中心に実務チームを構築するという方法を確立したのである。これには、建築家という人種のエゴイズムと、チームとしての安定的なアウトプットという二つの目的を同時に叶える役割があった。彼らは社内の競技を通して、設計を主導しエゴイズムを満たすチャンスが常に与えられる。コンペを行いさえすれば、彼らは勇んでRIAとして作品を作る。一見非効率な社内コンペという方法を経由することこそが、RIAにチームの「良さ」を保たせる仕掛けだったのである。
 しかし単にRIAが「良いチーム」であったと指摘したいのではない。そうではなく、この方法が同時代の設計事務所との間にもたらした作品性の差異に着目することで、「良いチーム」を作動させるメタ原理を析出することができる。
 直接クライアントとやりとりしながらプロジェクトを進めていく多くの建築事務所は、設計の際にいかにしてクライアントの要望を「作品」の次元に高めるかという課題を追求しようとする。そのため、どの作品の生成プロセスも、それぞれ建築家とクライアントの共同作業に付随する一回限りの副産物として個別的に理解されてしまう。そこでの目的はあくまでも「作品」なのである。
 他方RIAの場合、設計行為はプランニング・コンペという、建築家のみで構成された閉鎖系の中で一旦完結する。建築家による設計プロセスを複数化した上で衝突させるこの仕組みは、制作プロセスの中にそれ自体への自己言及──RIAが生み出すべき作品とは何かという議論──を組み込むものである。生み出されるRIAの作品は、クライアントごとの要望を汲み取ったものであると同時に、これまで、そしてこれからRIAが制作する作品群との関係性において規定されることとなる。
 こうしたRIAの制作プロセスの特質──未だ誰も見たことのない「作品」を目指すのではなく、他の作品との「関係性」を重視する方法──は、他の作品に付随する過去や未来のクライアントたちの要望を、眼前の制作を通して見立てる実践として理解できる。それは一つ一つの制作を通して、社会の集団的なニーズを汲み取る運動に他ならない。RIAの制作は作品によるクライアントや建築家の満足という次元を超えて、設計行為がクライアントと絡み合う社会的状況そのものにアプローチする方法なのだ。このことは、社内コンペという方法論を介した二つの運動体(RIA/社会)のカップリングの全体をこそ「良いチーム」の本質として理解する視座を提示しているように思う。この意味においてチームの「良さ」とはすぐれて社会的な意味を帯びるのであり、作品の強度においてではなく、その制作プロセスが実践を通して社会のニーズをあぶり出している状況にこそ価値を見出す態度を可能にするはずだ。それはもはやチームによるクリエイションという建築家側の論理を超えて、建築家のエゴイズムと社会のニーズを調整する制度として解釈されるべきである。
 RIAはプランニング・コンペの作動がもたらした四五〇を超える作品数によって、当時の住宅需要と住空間の改革という問題に応えてみせた。奇しくも自ら作り上げた効率的な設計手法は、その後立ち上がったハウスメーカー各社によって継承・発展され、逆に住宅設計市場におけるRIAの活躍を削ぐ結果となる。そのような皮肉な結末すら、設計事務所というよりは社会的存在として振る舞ったRIAの立場を際立たせる。まさしくその登場と退場が、そのまま日本社会における住宅産業の変遷に対応するかのようでもある。
 集団的なクリエイションを行う「良いチーム」は、時に社会の要請を、自らの運動のあり方それ自体を通して表象するのだ。