[review] Rhetorica Review

texiyama|大都会と砂丘──tofubeatsのリアル

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初出=RhetoricaJournal vol.2 特集=Fantasy is Realityほかのレビューも読む(URL

 2016年10月8日、Maltine Recordsが主催したパーティ「大都会と砂丘」(WWW / WWW X)。本誌の座談会でこのパーティについて──直接は関係しないにもかかわらず──僕が触れたのは、『ゲットダウン』と、この日の「砂丘」(WWW X)でのtofubeatsのステージに通ずるものがあると感じたからだ。

 あの日のtofubeatsのステージは素晴らしかった。何が良かったのかは僕にとっては明確で、彼が自在に遊んでいるように見えたからだ。それは選曲やフロアの雰囲気もありつつ、何より彼の仕草や動きから伝わってくるものだった。自在さ、自由さ、楽しさ。それらを通じて、彼の人格やキャリア、用意されたステージがすべて地続きに感じられたことが素晴らしかった。それぞれのレイヤーが、ある舞台において一つに統合されて見えることの奇跡。「地続き」というのが一つのキーワードだ。

 彼の複数のレイヤーを紐解いていくと、例えばまず、あの日の前日にVisionでプレイしていた/されていたのはtofubeats演じる「tofubeats」であり、それは限りなくポップに演出されたものだ。ディスコの神様。水星。

 そしてその下には、「大都会」=マルチネのtofubeatsがいる。そこは彼にとって、メジャーな「Vision」から帰ってこれる場所でありつつも、今度はインターネット世代の代表としての「tofubeats」を演じなければいけない場所でもある。マルチネのシンボルとしての振る舞いが求められる場所だ。

 さらにその下には「神戸」がある。よく彼が行っている、自分の部屋からのUstream。自分の好きな曲を自分の好きなように繋ぎ、自分が満足したタイミングで終わる。リラックスした自由な場所だ。

 ではあの日のtofubeatsにとって、「砂丘」はどれに当てはまるのか? 僕には、これら3つすべてがあのステージに包括されているように見えた。使用された楽曲にもそれが表れていて、自分の曲やそのEditを流しつつ、その後ろには最近の機運である四つ打ちやハウスミュージックの影響などが色濃く感じられた。3つの顔と、それぞれのコンテクストやリスナーの層の違いがあるなかで、実際にはおそらく──例えばどの程度ポップにみんなが知っている曲を流すか等の──現実的な選択や配慮がありつつも、その要求への応答を感じさせない、最初から最後まで自分自身でしかないプレイをしてみせること。僕の語彙で言えば、それはたぶん「晴れ舞台で現実を演じる」ということだ。そして、そんなプレイが僕にとっても、また僕の友人や他の観客にとっても、つまり客観的にも素晴らしいものだったこと。そのことが胸を打った。リアルであることが、現実を実際に豊かにすることなんだということの証明になっていたように感じたからだ。ステージでの彼のダンスは“実際に”自在で、その自在は、いくつもの現実を背負って晴れ舞台に立ってみせることの自在さと呼応しているように思えた。人生を/ダンスを踊ってみせることが重なる場所として彼のステージがあったからこそ、そこに神々しささえ感じてしまったのかもしれない。あるいは、それぞれのコンテクストを彼がすべて背負い、自分たちのかわりに晴れ舞台に乗せてくれたように感じたから、そしてそれがそこでも通用するということをステージで証明してみせてくれたから。

 この日のtofubeatsがゲットダウンに重なったのはまさにこの点だ。コンテクストが通じない舞台にもコンテクストを背負って立つこと。ローカルなものが晴れ舞台でも通用するということを証明してみせることで、僕らの現実が初めてリアルなものに感じられるということ。この構図がマンハッタンとサウス・ブロンクスの対比に重なった。