[translation] “Design Fiction”

ブルース・スターリング「フィクションをデザインすること、あるいはデザイン・フィクション」

REFERENCE

原文=Bruce Sterling, "Design Fiction", INTERACTIONS, VOLUME XVI.3, ACM(Association for Computing Machinery), 2009, pp.21-24 翻訳=太田知也 初出=村尾雄太+川崎和也編『SPEC 01』、POI、2015年 [2016.04.30]公開
[2016.05.03]訳註を一部変更
[2019.06.02]訳文を一部変更

NOTES

原文はインタラクションデザインと計算機科学のマガジン『インタラクションズ』の少特集「制約条件の重要性(The Importance of Constraints)」におけるカバーストーリーとして掲載された。なお原文のタイトルは"Design Fiction"であるが、内容を踏まえてタイトルをこのように訳出した。また、〔〕内は訳者の補足。小見出しは原文になく、訳者によって付記された。註はすべて訳註である。本稿は原著者の許諾を得て翻訳掲載した。Thank you, our cyberpunk-guru!

06

池田亀鑑=校訂『枕草子』岩波文庫、1962年、p.76

07

1990年代のイギリスにおいてプロダクトデザインから生じたデザインの領域・手法のこと。「クリティカル・デザインは推論的(スペキュラティヴ)なデザインを提案し、製品が日常生活で果たす役割についての思い込みや先入観を揺さぶる」(Dunne, A. & Raby, F., CRITICAL DESIGN FAQ, 2007/拙訳)とされる。これとほぼ同義の「スペキュラティヴ・デザイン」は、プロダクトデザインよりはインタラクションデザインとの接続のなかでよりデザイン・シナリオに重きが置かれる実践・領域であると言える(参考=アンソニー・ダン+フィオナ・レイビー『スペキュラティヴ・デザイン──問題解決から、問題提起へ。未来を思索するためにデザインができること』久保田晃弘=監修、千葉敏生=訳、BNN新社、2015年)。

04

L・ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』野矢茂樹=訳、岩波文庫、2003年、p.9

05

原文には「Court Officer Sei」とあるが、清少納言自体が宮廷での役職についていたとは考えにくいため、単に宮仕えと訳した。

03

1950年に開発・製造された世界初の商用コンピュータ、およびその製造企業のこと。

01

20世紀初頭に開発された輪転印刷機のこと。

02

ファンダムとは熱狂的なファン・コミュニティのこと。

10

お伽話の『三匹の子豚』より。

09

インターネット以前の社会を特徴づける大量生産・消費社会の謂であると思われる。

08

「三〇年代というのは、アメリカの工業デザイナーの第一世代が登場した時代だ。三〇年代以前は、鉛筆削りがみんな、鉛筆削りらしく見えた。基本的なヴィクトリア朝風の機構に、せいぜい渦巻き模様の飾りをつけるぐらいのものだ。デザイナーの勃興のあと、一部の鉛筆削りは、風洞実験で作ったかのような外見になる。この変化もおおむねは一皮だけのことで、流線型のクローム外皮の下には、相も変わらぬヴィクトリア朝風の機構があるという具合。それはそれで、むべなるかな、というのも、アメリカのデザイナーで成功した人たちというのは、ブロードウェイの下積みの舞台デザイナーから引き抜かれてきたからだ。すべてはステージのセットであり、未来生活を演じるための、凝った小道具というわけだ」(W・ギブスン「ガーンズバック連続体」黒丸尚=訳、『クローム襲撃』ハヤカワ文庫SF、1987年)。

SFのバッドデザイン 私はSF作家だが、デザインに親しむにつれてSFにおける未来の日用品やサービスが極めて悪いデザインであると痛感するに至った。
 なぜだろうか。これはあまり問われることのない問題である。しかしその理由は極めて明白で、SFというのは大衆的な娯楽のひとつだからだ。ジャンルSFの見せ場はセンス・オブ・ワンダーにある。したがってSFの「デザイン」はなんらかの破壊的なアイデアを求めるが、他方で工業デザインは安全性や利便性、コストの制約、見た目、そして他の製品に対する優越性[シェルフ・アピール]を必要とする。これらは伝統的な工業デザインにおいて美徳とされてきたが、今日のわれわれはそれに加えてサステナビリティと真っ当なインタフェースをも求めることだろう。
 光線銃や宇宙船、アンドロイド、ロボット、タイムマシン、人工知能、ナノテク的なブラックボックスといった古典的なSFの意匠たち。これらは深いところで共通している──いずれもが架空のものであるという点で。架空の製品は決して消費者を傷つけず、またユーザから意見を受けることもなく、だから訴訟や規制委員会とも無縁だ。そういうわけで架空のデザインというのは途方もなく魅惑的で、したがって基本的にはがらくたなのだ。
 ときにはSFの未来予測が現実のものやサービスに変わることもある。すると、SFはすぐさまありふれたものになる。そうあるべきではないのだが残念ながら、現実はそうなのだ。私が「デザイン・フィクション」を書くようになると、私のサイエンス・フィクションはいくらか力を失っていくように思われた。その結果、少なくとも私自身の試みにおいてはSFのバッドデザインという問題を切り抜けることができたと信じている。
SFのプラットフォーム──ユーザ・インタラクションとしての文学 ところがSF的な思考がデザイン思考にまで広がっていくと、もっと大きな問題が生じた。概してそれらは思弁的な文化と言われるもの──つまり未来を見通す専門性によって社会を夢想する方法──に関する問題だ。かつて私が文学に限ったものとして捉えてきた数々の問題は、インタラクションデザインの問題として考えるとよりよく理解することができる。
 文学はプラットフォームを持つのだ。このプラットフォームという語によって私は──文学が書かれ、認識され、デザインされ、生産され、流通され、思い出され、そして忘れ去られるような──物理的な構造のことを意味している。文学における物理環境[インフラストラクチャ]はUX(ユーザ・エクスペリエンス)に関する制約をもたらす。
 ここから、若く小さく、そしてオタクっぽい文学形式のひとつであるSFについて考えてみよう。空想小説は聖書と同じくらいに古い。それとは極めて対照的に、SFは1920年代の大衆電化製品カタログから現われ、主に10代のラジオ狂いたちのためのものだった。それこそがSFにおける原初のプラットフォームだった。
 アメリカのパルプ・フィクションにとってのプラットフォームはもはや死に体だ。とはいえ、あなたがウェブデザイナーであれば初期のSFがどうして、あるいはどのように機能したか手に取るようにわかるだろう。パルプ雑誌はチープで手に入りやすく、すぐさま流通し、そしてニッチな市場に訴求しうる媒体であった〔ウェブと同じように〕。SFの印象的な装画は、姉貴ぶんであるところのパルプ・ジャンル──ミステリーや西部劇や男子向けのアドベンチャー、女子向けのロマンス、スポ根、クライムその他──との際立った違いをすぐさま生み出した。
 ここ80年のあいだにSFは信者を獲得し、またそのうちのいくらかは文化的な生産者にもなった。資本主義のもとで、バカにされないくらいには十分な金を儲けてきたのだ。他方で共産圏においてもSFは大きな成功を収めた。ソ連のインダストリアル・デザイン(これはじつにひどい代物であったし、現に消え去った)なんかより、ずっと大きな成功だ。
 プロが書く商業出版の影で、SFというサブカルチャーを信奉する者たちはゲステットナー(Gestetner)*01や蒟蒻版(hectograph)といったDIYの複写技術をいち早く利用した。そこには文筆キャンペーンもあればアマチュアの出版業者もあった。ローカルな作家団体もあった。おびただしい数の地域SF大会も開催された。現代のウェブ文化を1930年代のSFファンダム*02と極めて似通ったものとして捉える向きもあるだろう。ただデジタル化され、あるいはグローバル化されたという程度の違いでしかないのだと。
 いまやこのようなファンダムは廃れて久しいが、それは牧歌的にぬくぬくと育ったわけではない。ある特定の物理環境に応じて形成されてきたものだ。初期のSF作家と編集者は、科学と技術にまつわる大衆小説を売り込むことを夢見てきた。しかし、だとすれば彼らは決定的に誤解していた──だってSFはユーザ・インタフェースの人工物なのだから。現実的な科学と技術にまつわる小説なんかではなく、どこまでも空想の産物である小説作品を読みたがるような少数ユーザーのほうを、SFのプラットフォームは選びとった。彼らのうちのいくらかは、同時に熱狂的な科学オタクでもあるのだが、しかし他方で科学者は決してSF小説を読んだりしない。
 SFの読者層[ユーザ・ベース]が真に望んでいたことは、1930年代には実現不可能だった。彼ら自身の言葉を借りれば、当時のSFユーザはむちゃくちゃに速い原子力の未来を求めていたように思われている。けれどもそんな製品やサービスを差し出されたとしても、彼らはそれを得るためにSFを手放すようなことはしなかった。純粋に、現実世界で欲しがったわけではない。
 彼らが本当に欲しかったのは没入できるファンタジーである。暖かく支えてくれるサブカルチャー、つまり現実世界の役割を投げ捨てて半永久的な仮装を楽しみながら安全に引きこもることのできるサブカルチャーをこそ、彼らは欲した。SF映画はその役に立った。SFのテレビシリーズも役立った。ところがひとたびMMORPG(多人数参加型のマルチプレイヤー・オンラインゲーム)が登場すると、印刷の物理環境に由来するくびきはふっ飛んだ。そうしてSFの読者層[ユーザ・ベース]は爆散したのだ。
 正気の人間は週に80時間もSFを読みはしない。けれども『ウォークラフトWarcraft』の熱心なプレイヤーにとって週80時間はざらにある。
語りえぬもの このことを「進歩」と捉えるべきではない。これは単なる流行り廃りの問題ではないのだ。デジタルメディアは印刷に比べて、とても儚く移ろいやすい。バグだらけの拙いMMORPGがユニバック*03ともども死滅した遠い未来では、むしろH.P.ラヴクラフトこそが(パルプ雑誌における究極のSF作家として)読まれているだろうと考えられるほどに。
 ここで私は想像力の限界というものに思いを馳せる。間違いなくパルプ雑誌の物理環境は、そこに書く作家の想像力を制約していた。決して認識できないがゆえに外すことのできない色眼鏡を、彼らはかけさせられていたのだ。
 タイプライターは作家を制約した。原稿の分量は作家を制約した。作家と編集者のあいだに交わされる紳士協定すら、公の場でなにを考え、なにを言い、なにを理解するかを作家に強いてきた。このようなインタラクションを成す仕掛けとしては、読者のお便り[レター・コラム]、ファン・メール、出版イベント、契約書などがあり、これらはただの読者交流[インタラクション]などではない。きちんとデザインされた経験[UX]ではなく、運用されながら生じてきたものだ。
 ここで言語が持つ存在論的な制約に関するウィトゲンシュタインの議論を持ち出す向きもあるだろう。ウィトゲンシュタインが書いた有名な一節──つまり想像力の限界に直面したとき、哲学者はだんまりを決め込む器用さが必要だということ。それはこう続く。
「本書が全体としてもつ意義は、おおむね次のように要約されよう。およそ語られうることは明晰に語られうる。そして、論じえないことについては、ひとは沈黙せねばならない」*04
 信じているかいないかに限らず、多くのSF作家はウィトゲンシュタインを理解できただろう。ところがUXデザインはSFを遥かに超えている。またウィトゲンシュタインの範疇すら超えて、本に書き沈黙のうちにやり過ごしてしまうことについて想像したり言葉を発したりするのがUXデザインなのだ。
「本書が全体としてもつ意義」とは、語のすべての意味ではない。ウェブ上で研究されているジャーナリズムにおける「グーグル先生」、その薄気味悪さを見たまえ。あるいはブログ・プラットフォームにおけるハイブリッド化した「クレオール・メディア」を考えてみればいい。ソフトウェアにおけるソースコードという形式の文章は〔意味の伝達ではなく〕、意志の表現なのだ。
『枕草子』の読書経験[UXデザイン] この問題を追求するため、ここでいささか古めかしい事例を持ち出すことをお許しいただきたい。1,000年前の文学プラットフォームについて考えよう。この遠く隔たった時代に、世界は初めて小説というものの産声──あるいは死産だったかもしれない──に出くわした。紫式部の『源氏物語』である。西暦900年代後期に毛筆で書かれ、のちに書籍として出版されることになる、この巻物状の草稿は紛れもない恋愛小説[ロマンス]だ。ジェーン・オースティンの読者なら『源氏物語』を構文解析[パース]するのは容易だろう。
 このような原初の小説の同時代には清少納言の『枕草子』というライバルが存在した。こちらは小説ではない。強烈に文学的ではあっても、現代文芸のプラットフォームに関する語彙では分類できないものだ。『枕草子』は政府文書の余り紙に書きつけられた断章形式の文章に過ぎない。
 『枕草子』は日記ではない。文集でもない。年鑑でも目録でもなければ、和歌の資料でさえないが、しかしこれら現代的な性質を持っているようでもある。だから『枕草子』を読む経験については、UXの語彙で考えたほうが理解しやすい。
 ここでの「読書経験[ユーザ・エクスペリエンス]」は、宮仕えの侍女が閉鎖的な宮中で退屈しのぎに費やした4,5年間を意味する。その経験は、魅力的で目立ちたがりの宮仕えである清少納言*05というスター作家(あるいはスターデザイナー)を擁したが、しかし広報も出版社も編集者も配給者もおらず、出版されることすらもなかった。清少納言の読者層[ユーザ・ベース]はすべて合わせても約200人の女性から構成される程度の規模でしかなく、誰ひとり『枕草子』を読んではいない。その代わり彼女たちは燭台の薄明かりの下、寝そべった夫の朗読を聞いていた。
 このような当時のユーザ・エクスペリエンスを踏まえると、『枕草子』を文学の内部だけで扱うことには無理がある。この古の「本」は──機能の点でも読者の点でも──われわれの読む本とはほとんど無縁であり、まったく異なった経験をもたらす媒体だったのだ。どちらかと言えば現代における小規模なブログとの親和性のほうがよほど強い。
 清少納言が次々と「にげなきもの」を挙げていくなかでもっとも悪名高い一節──「にげなきもの 下衆の家に雪の降りたる。また、月のさし入りたるもくちをし」*06
 彼女が言わんとすることはなにか? 小作農のぼろ屋には、月の射す雪は「ふさわしくない」のだという。身分が低く質素な人々にとって、可愛らしい雪は良きに過ぎる[トゥー・ナイス]、と。細雪の魅力は、そうした人々のみすぼらしさと釣り合わないというのだ。
 現代の読者はこのスノッブな見解に触れて悲嘆に暮れる。もちろん、この言葉はきついし、憎らしく、政治的に正しくないものとして解釈しがちだ。だって貧しい庶民の一人がこの階級差別的な一節を読むとしたら、どうする?
 しかしながら、庶民がこれを読むことはなかった。なぜなら、まずもって小作農は字が読めなかった。第二に、手書きの写本は小さな宮廷サークルのなかでしか流通しなかったから。第三に、女性のあいだでしか用いられない特別な草書体で書かれていたから。これは男が盗み聞くことのできないガールズトークだったのだ。
 このようなインタラクション構造においては、『枕草子』は嫌味なものには成りえなかった。私たちがそこから受け取るひどさは、清少納言にとっては想像しえないものだった〔これが「出版」されるとは考えられていなかった〕。別の歴史を夢想するのは時代錯誤[アナクロニズム]だ。
 そういうわけで、小作農の家にかかる雪の愛おしさがふさわしくないというとんでもない一節の前にわれわれは尻込みさせられてしまう。清少納言は──現代の私たちには想像もしえないが──ありのままを伝えていた。単なる意地悪な発言ではなく、洗練され、なおかつ一切の政治的な意図のない美学的な評価なのだ。この一節は、ライムグリーンが航空法上のオレンジに合わないと言っているようなものだ。もし清少納言が直接なんらかのかたちで小作農にそのことを伝えたら、その人はすぐさま雪をどかしただろう。自らの見苦しい過ちによって、遥かに高貴な婦人を厄介に巻き込みたくはないだろうから。
SFとモダンデザイン──双子の姉妹 出版の物理環境は作家の思考を制約する。紛れもなく、あらゆる形式のアートもデザインも制約を内在しているものだが、しかし作家だけは見かけ上の言語の自由さに惑わされているように、私には思える。紙に印刷された、出版された言葉は、言葉そのものではありえない──それは工業生産された人工物なのである。
 作家はひどくこだわる。単語に、語義に、感覚と意味にこだわる。他方でデザインは、それほど言語的ではない。デザインは自らをその他と区別する新しい方法を発明するのに忙しい。デザインは文学よりも多くのリスクを取ってきた。そのため現代のデザインはかなり最新[アップ・トゥ・デイト]だと感じさせるが、文学は囲い込まれた古めかしさを感じさせる。
 デザインと文学が共に語らうことはほとんどなかったが、現時点でデザインは──文学がデザインに提供できるよりも多くを──文学に提供している。デザインは自らの領域的な隔壁を乗り越える方法を探し出しつつある。デザイン・シナリオや行動観察、ブレイン・ストーミング、ラピッド・プロトタイピング、クリティカル・デザイン*07、スペキュラティヴ・デザインとして。そこには「経験の[エクスペリエンス]デザイン」すら含まれるが、これはきっとこれまで発明されたデザインのなかでもっとも尊大で、もっとも捕らえどころがなく、もっとも幻影じみている。
 エクスペリエンス・デザインは精神的にはかつてのベルトコンベア[アセンブリ・ライン]よりもずっと密接に、演劇や詩作、もしくは哲学にすら結びついている──およそ「経験」でないものなどありうるだろうか。あるいはなんらかの仕方で「インタラクティブ」でないものなど? 経験のデザイナーとはラディカルにデザインの普遍化を推し進めるマニフェストの下に集った、小さな一群のものたちだ。
 SFが無線部品のカタログから生まれ出たとき、デザインもまた製造業における流線型の下僕として生を受けた。最初期の工業デザイナーたち*08──ノーマン・ベル・ゲデスはとりわけ──はけばけばしいSF的な特殊効果[スペシャル・エフェクト]をかなり与えられていた。飛行翼、巨大ダム、あるいは未来のメガロポリス。
 まったく同じ理由で同年代に生まれた姉妹の専門分野は、しかし、すぐに道を分かつこととなった。この姉妹は遠縁だが親密だった。彼女らは決して仲違いせず、また身をやつすことなくやってきたのだが、共通の目的を持たないことに気づいた。デザイン──インダストリアルだった頃の──にはクライアントと消費者がおり、SF──芸術表現としての──にはパトロンと読者が居た。
 これまで有名なデザイナーでSFの執筆に手を出したものはいない。派手なSFは厳格な近代合理主義には決して与さず、素材の制約をしぶしぶ受け入れたりすることとも無縁で、人間工学[エルゴノミクス]の研究とも関係がない。これら未来志向的[ヴィジョナリー]な二つの事業が支持母体[ユーザ・ベース]を共有することはなかった。
インターネットという大規模変革[マッシヴ・チェンジ] しかし、それもインターネットが登場するまでのことだ。印刷が溶解し始めたとき、製造業はデジタル化を始めた。消費者も読者も共にユーザー、すなわちキーボードを叩く参加者(かつて彼らはただの読者だったのだが)となった。
 2009年のいま、私は両者が持つ1920年代からの古い共通点についてひどく不審感を憶える。私たちが現在住まう技術社会[テクノカルチャー]──もはやそれはポストモダンではなく、それゆえ「サイバネティックス化され経済崩壊したグローバル・リベラル資本主義」と私たちがどもりながら呼ぶもの──、それは合理的にデザインされたものでもなければ、SFによって予見されたものですらもない。
 どうしてこうなった? なにが起こったというのか? いったいなぜだ? そして次に来るのは──いや、もうたくさんだ。どうしてもっと良くできない?
 私たちはすでに、想像されなかった文化に入り込んでいる。サーチ・エンジンとハイパーリンクの世界のなかで、キーワードとネットワークのなかで、昨日までの規範としての黒煙立ち込める煙突*09は吹き飛ばされた。専門技術で武装する代わりに、もしくはサブカルチャーの待避壕[シェルター]に引きこもる代わりに、デザインとSFはまるで古くさい絹地の熱気球のようなものになった。瘴気に満ちた文化という大気に浮かび、熱風で多様なかたちに変化する二つの脆い球皮となった。
 このように端から未来志向型の思考[SF]と行動[デザイン]を教える二つの学校は、いまや視野狭窄に陥っている──未来を見通せないというよりは、むしろ適切に想像力を行使することができていない。より大きな視野に立てば、新世紀の大きな物語はデザインとSFの範疇をたやすく超えている。共に盲点──〔成立時点の〕80年前から前提となっていた思い込み──を持って生まれたからだろうか?
 新結合[イノベーション]に関する示唆に富んだ言説はたくさんある。社会の変化[トランスフォーメーション]に関するものも、共同作業[コラボレーション]と学際領域[トランスディシプリン]に関するものも。これらはすべてバズワードで、長く続きはしない言葉だ。真に私たちが経験しつつあるのは、大規模なサイバネティックス的大量出血によって世界を捉える言葉が失われているという状況である。
 全能のボトムラインであるところの通貨──これはアメリカ社会における究極のリアリティ・チェック[現実感を担保するもの]なのだが──、それすら自らの物理環境がもたらす色眼鏡によって目を眩ませられる。その結果、価値基準としての通貨の役割を失ってしまう。ヴィジョナリーはもはや考えるべきことを知ってはいないし、したがって必然的に資本家も投資先を見出すことができずにいる。
 これに対してどうすべきなのか、私はほとんどわからない。チャールズ・イームズがかつて言ったように、デザインとは行動のための方法である。〔それに倣って〕文学とは意味と感情のための方法である。幸いなことに、自分がどう感じているかはわかっている。この状況が意味することに、私はうすうす感づいてすらいる。
 「箱」の外側を考えるよりは──極めて率直に言えばその箱とはほとんどつねに「貯金箱」のことだったのだが──、私たちはむしろ〔自分たちが投げ込まれた〕箱そのものについて、もっとよく理解する必要がある。なんらかの新しく、より一般的で創意に富んだプロジェクトこそが、現在的な技術-社会環境の枠内で想像しうることの限界を描出[マップ]できるのかもしれない。想像力の隙間を埋めようじゃないか。
 そのような努力において、20世紀に開発された言葉は役に立たない。これまでそんな努力が試みられたかどうかすら疑わしい。出来事に対するうまい応答が為されてきたとでも──? ネットの強風には藁が吹き荒れている。レンガを積むのは誰だ?*10