[talk] Homeness

おうち性[Homeness]

LEADING

本座談会は、RhetoricaのメンバーとMaltine Recordsのtomad氏が「おうち性(Homeness)」について語ったものである。収録は、おうち性を備えていると思われる都内の飲食店「白樺」「ボリューム」「みさわ」「屋上」でのフィールドワークを踏まえて行われた。ただし、四つの店舗を選択した理由は非常に恣意的であり、何らかの確立された方法に基づくものではない。ひとえにおうち性の仮説を深めそうだという実感や主観により選ばれた。フィールドワークに際しては、デザインリサーチにおける人類学ベースの「アーティファクト分析」や考現学的な観察手法に基づいている。なお、これには座談会出席者以外にデザインリサーチャー数名も同行した。座談会:青山新+太田知也+瀬下翔太+tomad+松本友也
写真:吉屋亮
初出 =『Rhetorica Journal vol.3』(team:Rhetorica, 2019)

はじめに:おうち性 [Homeness] についての仮説“おうち性”とは、その名の通り、実家のような雰囲気──それはしばしば経年変化の進んだ壁や卓、意図のない置物や壁掛け、飾り気のない食器や小物などに由来する──を意味している。“おうち性”を備えた飲食店は、公共空間でありながら私的な生活の痕跡をそこかしこに残す。
 都市における空間が、チェーンや大資本、行政による均質化に抗おうとするとき、つまりそこに何らかの拘りを反映させようとするとき、その空間づくりはいくつかの方向性を取りうる。たとえば、等身大・チル・ちょうどよさ・くらしといったキーワードに象徴されるような、生活へのフェティシズムや私的空間の理想化。あるいは、サロンやシェアオフィス、共同体のたまり場といった、排他的な選別の先鋭化。
 しかし均質化に抗おうとすること、あるいは「抗う」という特定の意図のもとに空間をデザインすることは、それ自体が罠のようにも思える。それが優れたデザインであればあるほど、空間は意図のもとに収束し、ノイズはカットされる。抗おうとしていたはずの均質な、ツルツルした空間に、結果的に近づいてしまう。
 対して、おうち性を備えた空間は、目的に従属していないノイズで満ちている。それはただの無作為ではなく、人の営みの蓄積である分、意図自体は過剰だと言える。ただ、空間全体は特定のゴールに収束していない。還元されないものの積み重なりでできた空間は実にざらざらとしている。それは、都市を生存するための空間ではなく、都市に残存してしまった空間なのである。
なぜおうち性か?瀬下 それでは議論を始めていきたいと思います。実は一年以上前から一緒に「おうち性」について話していて、今回もかなり気合いが入っていそうなトマド氏から、まずは口火を切ってもらえたらと思います。そもそも、どうして「おうち性」みたいな話に興味を持ったんですか?
トマド おうち性に関心を持ち始めた問題意識としては、最近のコミュニティってサロン(閉じた空間)かフードコート(開かれすぎた空間)に方向性が分かれているなと思ってて。そのどちらでもない居場所を求めているんだけど、そこの言説が不足してるんじゃないかと。
松本 よく「ツルツル」って言ってるやつですよね。最近は消費と都市空間のフィードバックが洗練されすぎてて、新しくできるスペースもだいたい予想の範疇に収まってて面白みがなく感じられてるという背景があって、そこから何か面白い場所を探すための仮説として「おうち性」が出てきた。
トマド フードコートとか郊外に関する議論はわりと飽和している感じがあるし、ネットカフェのような「ひとり空間」についての議論も出てきているから、ここでは「おうち性」ということで、自分ひとりじゃない誰かと同居している場所、適度にノイズのある空間について考えていきたいなと。
瀬下 適度に気ままに振る舞えて、適度に邪魔が入ってくるような場所って、都市にはあんまりないですもんね。トマド氏の専門(?)のクラブのような空間はどうですか。
トマド クラブは時間によって変容しますよね。横で誰かがめちゃ踊ってるけど自分は音楽に没頭してる瞬間とかもありつつ、みんなで酒を飲んで盛り上がる部室みたいな瞬間もある。自分自身に関しては、適度におうち性があるイベントを目指したいっていうのはあります。マルチネレコーズは部室性が強まっている感じがあるので、もう少しノイズがあってドライなものにしていきたいし。
青山 ぼくは個人的に建築史家のアンソニー・ヴィドラーに興味があって読んでいるのですが、彼は近代における建築空間に潜む不安や恐怖をフロイト以後の精神分析学を参照しながら論じています。フロイトが述べた不気味:unheimlichはすなわち「家的ではない」という意味ですが、一方のheimlichは「家的である」と同時に「秘匿された」とも訳されます。こうした一連の家にまつわる薄ら暗い質感を含めて、おうち性を考えてみたいと思っています。
太田 学生時代にゼミで、地方の個人商店をデザイン的な観点からリサーチしたことがあります。そのときはまさに、建物や空間におけるノイジーな用途の混在(ジェイコブス)を見てきました。今回は対象地が都市部だということで、それらがどんな風に現れるのか、楽しみです。
瀬下 各自の問題意識も聞けたところで、とりあえず今回行ってきたお店を順番に振り返り、おうち性についてもう少し細かく考えていきたいと思います。
白樺_DSC6175◉ファミレスとおばあちゃんち
瀬下 まずは、新三河島の和風喫茶「白樺」です。
松本 個人的にかなり好きでした。空間がゆるやかに区切られつつもフラットで、ファミレス的な居心地のよさ。あとは単純におばあちゃんちぽい雰囲気があって落ち着く。
太田 ここは1975(昭和50)年創業だそうです。お店のなかに池があったり、瓦屋根があったりしてだいぶ独特だなと思ったんだけど、店主によると初期の「ルノアールを再現した」とのことでしたね。
青山 大正ロマンの雰囲気がありますね。実はルノアールはもともとお煎餅屋さんだったんですよ。だから今でも日本茶を出している。西洋風の雰囲気を取り入れたお煎餅屋さんのルノアールを、さらに真似するという二重三重のひねりが参照元を掴みづらくしている。
瀬下 お店のおばあちゃんと話した印象だと、こういう様式はよくあったんじゃないかしら。いまでいう「ちょっとおしゃれでサブカルっぽいもの」みたいな。
松本 ただ、いわゆる純喫茶ではないわけだよね。年季が入ってどうでもよくなってるというか、毒が抜けている。照明とかも明るくて、来るもの拒まずな感じ。
トマド だけどあの雰囲気を保ってるのは、一応東京にあるというのが大きそう。
瀬下 地方だったらもっと広いお店になりそうですね。
松本 さっきファミレスと比較したけど、東京の個人店だから店舗はファミレスより小さい。そこが家っぽいくつろぎを生んでいると思う。
瀬下 ぼくはゼロ年代によく語られた、ショッピングモールやファミレスといった郊外的な場所に関する議論を思い出しました。もちろん白樺のほうが昔からあるわけで、倒錯的な話なんだけれども、郊外的な店舗の居心地の良さをアップデートさせたもののように感じるっていうか。
ボリューム_DSC6091◉メメント・モリ
瀬下 続いて、虎ノ門の洋食屋「ボリューム」です。ぼくはユニークな調度品の数々にちょっとクラクラしてしまいましたが……。
太田 ボリュームは読み解くべきテクストとして面白かったかな。奥行きの深い地下空間に入店して最奥を見ると、ちょうど絵が架かっててね。
青山 この絵解きにあたっては、お店が地下にあることをまず考慮すべきでしょう。壁の絵は街の風景を画題としていますが、地下空間の外部のなさにより、絵があたかも窓のように感じられてきます。
太田 そして絵画の消失点に吸い込まれていくような感覚を得る──外部へ吸い出されるかのように(笑)
青山 一つの視点から見ないと窓にならないという、この点がもっとも重要です。要は、ホルバインの『大使たち』──ある一点から観られたときにドクロが浮かぶ絵画──と同種の仕掛けが、ここでは作動しています。とすると、ボリュームに秘匿されたメッセージがあるとすれば、メメント・モリ(死を想え)なのかもしれない。例えばわれわれ訪客は、地下へ入店した時点で象徴的には墓に入っており、お店自体もその歴史を繙く限りは、“プロ酵素”がなければ閉店していたようです。つまり、多層のレイヤーで復活体験を繰り返しているのがボリュームという店なのです。奇しくも『大使たち』に描かれたもう一つのモチーフ──磔刑に処されたキリスト──のように。◉外側のない“おうち”
太田 たいへん刺激的な読解です。ぼくも地下に関して別方向からアプローチしてみたい。ジジェクが映画『サイコ』を論じた際に、彼は地下階を無意識の場所になぞらえています。精神分析を介して地下が夢と繋がるとき、ここでぼくは次のフレーズを思い起こします。「パサージュは外側のない家か廊下である──夢のように」(ベンヤミン)。これを借りて考えてみたいのは、「ボリュームは外側のない“おうち”か廊下である──夢のように」という仮説的な命題です。
松本 おお……(笑)
太田 軒先から地下へ至る階段を通って入店し着席するまで、その連続的な経験は極めてベンヤミン的です。どういうことか、空間構成をみましょう。複数のテーブル席が壁の左右に付くかたちで振り分けられており、絵の消失点に向かって歩くとき、中央の道はまさに廊下となります。廊下を歩くあいだに四方を窺えば、置かれたあらゆる調度、眼に入るあらゆる意匠、どれもが不統一であり、テイスト同士が喧嘩している印象を受ける。わかりやすい具体例は、お寺の書も飾られているし神社由来のお札も置かれているうえ、“プロ酵素”なる宣伝ポスターも同居しているのです。
青山 グロテスク──これも地下墓所の意ですが──な調度品の羅列はさながら「驚異の部屋」のようですね。これら調度品の来歴をお店の人に伺うと、知り合いからいただいたものがほとんどだそうです。
太田 そうだったね。人間関係が物象化したファンタスマゴリー 、すなわち、お店を長く続けているあいだにもらいものが増えた結果、店内へ次々と陳列されていったものたち。訪れるわれわれは、一連の廊下歩きの最中にあって、宗教的な漂着物たちに幻惑されてしまう。
トマド たしかにボリュームは単一の方向性がないっすよね。
太田 ベクトルが無い。あるのは容積(ボリューム)だけ。何をでも収容可能な容れ物だけ。外側のないおうちだけ。
◉生ける回転体
青山 雰囲気のあるアイテムは色々とあるけど、一つひとつが支配的になってはいないですよね。なぜかを考えてみると、異常な回転率の速さがあるからじゃないでしょうか。ランチタイムのサラリーマンがガソリンのように燃料を供給していて情報量が多い。だから一つの価値観に塗り込められない。そういう意味で「生ける回転体」みたいなものかなと。
トマド 色々と要素は詰まってるけど、方向性がはっきりしすぎてないのが良いですよね。回転してないと沈んでしまうので長期間続けられない。
青山 進化について言われる「赤の女王仮説」を思い出します。『鏡の国のアリス』のなかに出てくる「その場にとどまるためには、全力で走り続けなければならない」というセリフに由来する説で、走り続けないと滅んでしまうという。
瀬下 個人店、それもマニアックなものが置いてあるような店だと固定客ばかりになるだろうし、客の回転率も下がってしまいそうなものだけれど、ここは本当にたくさん回転してましたね。
松本 人がたくさん来る平日のランチタイムしか店を開けていないというのもポイントですね。虎ノ門だときっちりランチの時間とか決まっててランチ難民多そうだし。
トマド 前は出前やってたって言ってましたよね。ぼくは回転のスピードが重要なのかなと。常連さんは空気を読んでランチタイムの後に来ていて、速度を妨げないようにしている。奇跡のバランスがあると思った。
青山 ボリュームにはいわゆる居心地の良さは感じないけど、気兼ねなく何度も通える感じはある。そういう意味ではおうちっぽい。
松本 ターゲット層が虎ノ門のサラリーマンなわけだから、そもそもくつろぐような場所じゃないという説はある(笑)。ある種のレジャー的な空間。
トマド 聞こえてくる会話とかも面白いすよね。そのテンポの良さも無慈悲な回転率自体によって生み出されているという面白さがある。
松本 僕は視線恐怖が若干あって広い空間の食堂嫌いなんですが、ボリュームは適度に狭めだから食堂なのに居てもつらくない。
みさわ_DSC6130◉コンビニと立ち飲み屋
瀬下 続いて、2017年にオープンした渋谷の立ち食いそば・立ち飲み屋「みさわ」です。ぼくはここ大好きなので、少し解説をさせてください。このお店は最初は酒屋だったんですが、次にコンビニになった。そしていまは、コンビニの内装を活かしつつ、昼は立ち食いそば、夜は立ち飲み屋といった感じになっている。壁沿いにコンビニの棚が残してあって、そこにある食べ物や飲み物をレジに持っていったり、レジの手前に置いてある揚げ物を小皿に入れたりそばを注文したり……独特のスタイルですね。
松本 まさに、コンビニと立ち飲み屋が混ざったみたいな雰囲気だよね。
瀬下 うん。店主の方はすごく気さくだから、コンビニだった時代も雨の日に外で酒飲んでる若い子がいると「中で飲んじゃっていいよ」って声をかけていたみたい(笑)
松本 コンビニやる人って普通は店とかがめんどくさいからというのもありそうだけど、逆っていう。立ち飲み屋というより、酒屋マインドのままコンビニしてる感じ。◉コンビニチェーン・ポライトネス
瀬下 いわゆる立ち飲み屋と比較すると、深酒してるひとが全然いないのも印象的。元酒屋だったこともあって、珍しいビールとか面白いお酒はいろいろ置いてあるんだけどね。お店の方が言うには、吐いちゃうお客さんもいないし「みんないいひと」だって。
松本 コンビニの白い蛍光灯のパワーじゃない? かなり明るいから無礼講っぽい感じになりづらい。
瀬下 そう。この店にいるとコンビニっていう環境がいかに客を礼儀正しくさせるかがわかりますよ。トイレやレジの順番待ちとかでほかの客と若干やり取りが発生することがあるんだけど、そういうときにもなんとなくコンビニにいるみたいな気配が流れる。ちょっとした緊張感と無関心が完全にコンビニだから、妙に安心する……。
トマド コリドー街には不可能なポライトネスが生まれてる(笑)
瀬下 「コンビニチェーン・ポライトネス」ですかね(笑)
太田 ゼロ年代に論じられた環境管理型権力って、例えばエアコンの設定温度の低さや椅子の硬さだったじゃない? そしてそれらはしばしば、客の回転率を上げるための悪しき設計とされた。でも、照明の明度が規定するポライトネスというのは、ポジティブな方向性ですね。面白い。
松本 あとは場所も重要っすよね。渋谷のなかでも盛り場から少し外れた絶妙な場所というか。
トマド 神泉だと良い感じの飲み屋があったり、松見坂まで行くと住宅街だったりするけど、ここはちょうど中間の、どことも言いづらい場所。
瀬下 店主が元々地元の方で、渋谷という立地ながら地元を重視してるというのもあの雰囲気を生み出す要因になってるかな。
松本 周辺には結構オフィスがあるし、地元客ばかりになることもないしね。◉友達の母ちゃん・ポライトネス
トマド みさわがあの業態になったのは最近の話で、そんなに長い時間を経ていないから、まだプロトタイプっぽい感じもある。かっちりしすぎてない。
瀬下 立ち上げるときに黄金町の缶詰バーを参考にしたそうで、かっちりしすぎないというところは意識的にやっているところもありそうです。さらに言えば、店主のお母さんがよく厨房に立っていて、その空気感が店に入っているところもかっちりしすぎない要因かも。
青山 僕は店に行っていないので今聞いてた印象ですが、友達んちって感じですね。友達の母ちゃんがいるから微妙に緊張感があったりして。
瀬下 「コンビニチェーン・ポライトネス」に続いて、「友達の母ちゃん・ポライトネス」が……。
太田 ぼくは地元が観光地の鎌倉なんですが、駅前にはマクドナルドとサイゼがあります。いわゆる郊外っぽい、中学生がはっちゃけられるようなお店は、それら以外にほとんどない。京都とは違って街のサイズも小さいから、わりと逃げ場がない感じがする。そういう土地で、中学生はマックの二階席を占拠していました。二階席には店員もほとんど来ず、鎌倉で唯一母ちゃん・ポライトネスが働かないのはそこだった、ということかも。放課後の時間帯はサイゼの大空間よりも、マック二階のほうがうるさい──ぼく自身は陰キャだったので、ほとんど寄り付かなかったけれどね(笑)
瀬下 鎌倉で唯一の郊外っぽい話だね。
松本 関係ないけど、缶詰をああいう感じで食べられるのはいいなと思った。普段食べないから缶詰。
トマド 海浜幕張のアパホテルに缶詰バー入ってるんすよ。あのアパホテルめっちゃ良くて、大浴場もあって、風呂上がりに缶詰バー行ってそのまま寝る。面白いのは、地元の人も来てるんすよね。アパホテルがでかすぎて郊外のショッピングモール化してる。
松本 都内と議論の前提が違いすぎる(笑)
屋上_DSC6217◉目指しているのはサイゼリヤ
瀬下 続いて新三河島のスペース「屋上」です。ほかの3店舗と比較すると、まず運営者が二十代と若い。お店がオープンした時期も去年なので、一番新しいです。
太田 ぼくは屋上で店主のお二人にたくさん話を伺ったので、基礎知識を共有します。まず、彼らが目指しているのはサイゼリヤだそう。安くて、席が広くて、誰でも来られるし、勉強しててもいいし、もちろん飯食っててもいい場所。とはいえ、飲食店そのものをやりたいわけではない、とも。なぜなら、彼らがやりたいのは持続可能なホーム・パーティであるらしいのです。
瀬下 ぼくも以前ここをお借りして、前からやりたかったホムパっぽい雰囲気のイベントをしましたよ。
太田 学生時代からシェアハウスをやったり家具作りをしたりしていたことの延長で屋上が運営されているので家っぽさがある。しかしこれはさらに裏腹で、「ホムパです」って言っちゃうと、そこが誰かの家であることによって、友達以外の人には若干排他的になってしまう。それゆえサイゼ的なお店の開かれが目標となる。重要なのは、「ちゃんとしすぎない」ことだと言っていたのが印象的です。例えば、店に入ると端材が無造作に置かれているのは「こっちもちゃんとしてないので、みなさんもゆるくやってください」というメッセージらしい。
トマド 未完成であることのテイストが機能してるっすよね。
松本 素朴に、こういう場所は増えてほしいなと思った。
トマド 実験性があるってことっすよね。屋上のメンバーは「冷凍都市でも死なない」ってウェブメディアやってましたよね。そういう集団が店をはじめたというのもおもしろい。
松本 地元客もけっこう来てるというのが意外だった。
瀬下 運営メンバーが「サイゼを目指す」と言っていたのはめちゃくちゃいいですよね。チェーンVS個人商店みたいな自明視されがちな対立を崩していく視点が感じられた。ファミレス的な場所の良さを「チェーン」というかたちで括ってしまうともったいないもの。
太田 友達の友達くらいの関係性を呼びやすい場所だと思う。部室化してしまうことを挫く磁場がある。
◉デタッチメントの設計
松本 言い換えれば、承認を与える場じゃない感じがいいってことかもしれない。とはいえ、現時点ではサイゼに比べるとさすがに入りづらいとは思う。何も考えずにただ入るにはハードルが高い。
トマド DIYっぽさはある種のテイストとしてわかりやすいので、逆に素性がわかっちゃって入りづらい感じはある。未完成であることによって能動性を求められるというか。
瀬下 気になったのは、屋上ではほかのお客さんやお店の人と会話したほうがいいのか、そうじゃないのかというところです。松本とトマド氏が言っている「承認」や「能動性」というのは、要するにたまたまお店で出会う人と話すってことなんじゃないかしら。でも屋上は「サイゼを目指す」わけで、スナックのような場所を志向してるわけではなさそう。
トマド でも、喋りたくないときはひとりでくつろげる空間を求めてドトール行っちゃうかも、って思うんだよね。ど居たらいいかわからないというか。
松本 簡単さという意味ではむしろゴールデン街のほうがわかりやすいですね。店内の佇まいは似ているけど。ただ作業するだけだったら確かにドトールとかフードコートでいいわけで、そういう意味では色々と企画がセットになったり、企画の持ち込み自体を場所のアイデンティティにしてたりするのは面白いなと思うすね。
太田 でも、会話に盛り上がる風でもなく、ただ酒を飲んでくつろいでる人たちがちゃんと来てたよ。屋上民のデタッチメント感とバイブスが合ってるお客さんたち。
瀬下 宣言通りサイゼ化(?)しつつあるということですかね。
おうち性を考える
◉郊外性とおうち性
瀬下 さて、以上で四店舗それぞれについて語り終えました。ここからはおうち性について全体的な話をしていきたいと思います。
松本 冒頭に出た問題意識に立ち戻ると、閉じたスナックにおける窮屈さと、開かれたチェーン店における退屈さは、いずれも振る舞いの余地がないつまらなさな気がする。それでいうと、おうちは中間的なものというか、振る舞いのコントロールをするための領域。調整の余地があり、調整することそのものを楽しめる。ただ、これはあまりにも一般論的だし、まだ作業仮説だから、実際の空間づくりがどうなってるかを四店舗を通じて確認してきたわけだよね。どういう風に場所があるべきなのか。どのくらいの緊張度合いにするのか。パブリックとプライベートの緊張感。たとえば、みさわにおいて、照明を白っぽくすると途端にディープさが薄れてバランスが調整されるというのは面白い発見だった。蛍光灯は普通おうちじゃなくて公共空間ぽさに寄与するのが普通。でもみさわではそこが転倒しているっていう。
トマド 照明だけでなく、みさわは道に対してガラス張りなのも大事。透明性があるからディープになりすぎない。そういうふうに空間の操作によって公私の度合いを左右できるんだ、っていう気づきが重要かなと。
瀬下 さっきコンビニとみさわの関係について「コンビニチェーン・ポライトネス」という言い方をしました。加えてファミレスのフラットさと白樺の関係についてもあわせて考えると、ファミレスやコンビニチェーンの郊外性がおうち性を生み出す装置として転用されているかのようにも感じたのですが。
トマド 郊外的な空間には、個々の客が自分の世界を展開できる余剰がある。それぞれの宇宙に没頭できるというか。それに対して、おうち空間は視線がゼロじゃなくて、母ちゃん的な視線がある。屋上も一見フラットに見えるけど、母が居ないよっていう母が居る気がする(笑)
瀬下 みさわのところで出た「友達の母ちゃん・ポライトネス」的な、友達の家にお母さんがいるような状態がおうち性には欠かせないんですかね。友達の家は親しみもあるし居心地が悪いわけではない。けれども、お母さんがいることで微妙に礼節などが求められやりたい放題はできない。そんなバランス感がおうち性の本質なのかな。
トマド そうですね。一人暮らしだと宅呑みとかして自由な部室のような空間になっちゃうけど、家族を感じる空間では、他者が持つ不穏さが生まれる。おうちで重要なのは、そういう不穏さや薄暗さ、淀みなのかなと。
◉礼節、淀み、不穏さ
太田 淀みということで言うと、やはりボリュームが重要だと思います。おうち性って、ぼくなりに要約すれば、長い時間が積もって空間が淀んだ実家のような場所のことです。とすると、商業空間のなかに歴史の形象を読み解くベンヤミンの方法がやはり重要であると言え、ベンヤミン的空間であるボリュームがおうち性を理解するうえでもっとも象徴的な事例である、とぼくは思います。
青山 ボリュームはまさしく時間と人間関係が受肉したような内装ですよね。しかし同時にファンタスマゴリ=幻灯の意のように、これらの調度はすべてマクガフィンのようにも感じられるのが面白いですね。実際ディティールについてお店の方に訪ねてみたところ、来歴を語ってくれるものの興味はなさそうに見えました。過剰に堆積した意味がある瞬間、ホワイトノイズのようにフラットなものへと転ずる。プライベートとジェネリックが太極図のように入れ替わるところにおうち性を見ることもできそうです。
瀬下 まだまだ話したいですが、そろそろ時間です。最後に、おうち性のある空間をこれからさらに調べるにあたって、おおよそのあたりをつける方法について話したいのですが。
トマド 基本はグーグルマップじゃないかと思いますね。ある特定のエリアを決めて、マップを隈なく見てみる。まずチェーン店を排除し、名店・老舗も排除し、残った位置づけの難しい店に行ってみるっていう。
青山 おうち性がある場所は、生物学の共生の考え方を借りれば、無菌状態と不活性なヘドロの間なのではないでしょうか。ここで大切なのは、おうち=共生とは一般的なイメージの相利共生=win-winだけではないということです。生態系は、寄生や片利共生、片害共生などの割り切れない関係性を含みながら「回っていってしまっている」ところが面白いわけです。おうちも堆積した余剰を抱えながらシステムが回るところに味わいがありますよね。すなわち意図によって都市を生存するものではなく、都市の食物連鎖の中で残された不恰好な関係性なのではないでしょうか。そこには慈悲と無慈悲が共に在ると。
瀬下 ありがとうございました。

[於──F ALLONE小川町]