でも、「ロンドンから帰ってきて、みんな問いがないんだよね」って言ってるtexiyamaくんも「ほんまに自分に対して問いを持ってんの?」って証明できないじゃないですか。
──POKORADI archive vol.02
ポコラヂの収録中にトーフビーツは僕にそう問いかけたが、確かにこのアルバムが合うのはいつもそういうぼんやりした不安を抱えている時だった。自分は何がしたいのか。何ができているのか。確信めいた感覚はあるものの、しかしいざ何かを言おうとすると何もハッキリとは言えない。ある種、流されているような感覚。「問い」を持っているという自負を失わないための問い。手段が目的化していく。
このレビューだってそうだ。自分の「問い」、そしてこのアルバムへの思い入れを、力強くリリースとともに発表するはずだった。しかし現実にはあまりにも時間が経ち、大嫌いな東京の夏が始まってしまっている。
現実に対して「やっていく」こと。「問い」を立てて、それに向かい突き進んでいくインディペンデント像。それはRhetorica#03で僕が表明した態度だ。そこには何の迷いもなく、いわば現実の厳しさを無視するかのようなバイブスで言葉が並べられている。
僕自身の多忙さがそうさせたのか。蒸し暑いこの東京がすべてのやる気を奪っているのかは分からない。しかし僕の目の前の現実は明らかにロンドンから帰ってきた頃から変わってきている。
これは何も、疲れたのでもう全部辞めますということではない。むしろ現実的には自分の仕事も増え、給料も上がり、仕事以外のプライベートワークの数もずっと増えている。
しかし今はそのこと自体が自分にとって普通のことになり、いわば初期衝動を失いつつある状態なのかもしれない。とはいえその一方で、本当に少しづつしかスケールしない現実(確かにSkeptaも自分の周りから始まる小さなことの積み重ねからしか面白いものは始まらないと言っているし、僕もそうだと信じているが)を見ていると、果たしてこのままでやっていけるのだろうか、と不安を感じもする。
FANTASY CLUBとはよく言ったものだ。それは冒頭のトーフビーツ本人の言葉と同様に、「やっていこうとする」僕らに現実のしょっぱさを、そのリアルさを、ある種の攻撃性を持って見せつけてくる。信じたいことの信じにくさを語る彼の方が、僕よりも現実に対して誠実であると言えるのかもしれない。
このアルバムは「リアル」であると思う。しかしそれは、僕がRhetorica#03やポコラヂで常々口にしているような、目指すべき理想的なあり方としての「リアル」ではない。むしろそんな「リアルにやっていく姿勢」のしょっぱさをハッキリと突きつけてくるような「リアル」さ、つまり「リアリティ」を持った「リアル」さだ。
FANTASY CLUB
入れたらいいな
信じたいことは
信じにくいから
でも反対には行けないしなって
音鳴らしたりした
FANTASY CLUB
──CHANT #2
いま日本で、東京で毎日を過ごしていると、こんなにも暗い時代はないなと思う。自分に対して正直である=リアルであることと、目の前の現実=リアリティと向き合うことが、こんなに両立しにくい時代は今までにあったんだろうか。どの時代の人も自分の生きる時代についてそう思っていたのかもしれないが、いずれにせよ信じたいことは本当にいつも信じにくい。何かに対峙するたびに少しずつその思いは強まっていく。
しかし同時にこうも言えるだろう。信じにくさは、リアリティの壁にぶつかりながらも、なお信じたいと思っている者にしか生じない。信じにくさ、もどかしさを抱えながらも、それでも信じにくいままでやっていく。このアルバムは、そんな感覚を持っているのが自分だけではないということを教えてくれる。そしてこの作品が支持されている事実は、そのことをさらに強く感じさせてくれるだろう。だからこそこのアルバムは、リアルであることに対する冷ややかな態度と紙一重でありながらも、むしろ決定的に励ましなのだ。
このアルバムを良いって言ってもらえたら、なんとなく仲良くなるハードル下がりそうな気はするんです。
──POKORADI archive vol.02
問いかけはシンプルだ。あなたは、そして私は、信じにくいことを信じようとすることができるだろうか。